緊急事態9日目

あいかわらずのどの痛みが治らず医者へ。新しい漢方薬をもらう。さらに続くようならファイバー検査するらしい。そこそこ痛くてそこそこの憂鬱が続いている。

外の様子はとくに前回と変わらず。区の防災行政無線放送が、外出はできるだけ避けてください、区民ひとりひとりの心がけが云々、と戦時下のようなことを言っているが、普通にそのへんを人や猫が歩いている。生活というのは、多少のことでは変わらない強度のある営みなんだろうと思う。

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先月から韓国のインディーポップみたいのしか聴いていない。ADOYが一番お気に入り。

「ローファイでインドアで内省的なわりに適度にちゃらい」みたいな質感なのだが、インディーカルチャー(インディー映画であれインディーゲームであれ)に個人的に求めているのはまさにそういうことなんだなとあらためて自覚した。

聴く音楽を選ぶ基準は、そのときの気分に沿うかどうかしかないのだが、この「沿い」とは何なのかは前から気になっている。美学の表出の議論だと、そのときの聴き手の気分と曲が持つ「気分」が一致することでこの「沿い」が生じるとか、曲によってうまい具合に気分が引き出される(結果として「沿った」気持ちになる)とかいう話になるのかもしれない。なんにしろ、「沿い」が発生すると気持ちがいい。

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また自転車で川に行った。音楽のせいか春の気候のせいかわからないが、センチメンタルな方向に思考が進みやすくなっている自覚がある。有事の際に美的な感傷に沈むのは、メンタリティとしてけっこうやばいと思ってはいるのだが。

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好きでときどき読み返しているテキストのひとつに小林秀雄の「無常という事」がある。ひさしぶりに読んだ。

この連作のテーマは大きく2つ、孤独と不動の美なのかなと思う。西行や実朝はちゃらくさい技巧を意に介さず孤独とともに歌を詠み、著者はその孤独を孤独のまま読み出す。世阿弥や平家物語からは、人間のその都度のささいな心理など意に介さない力強い行動への賛美が読み出される。著者によると、それはもはや動じることのない死人や歴史に通じる美しさらしい。

2つのテーマは同じ話ではないと思うが(アンチ技巧という点では共通の美意識だろうが)、どちらもひどくセンチメンタルな話ではある。「無常という事」は昭和17~18年ごろに書かれたようだが、昔読んだときに、この人は戦時中になんでこんなに感傷に浸っているのかなと思った。世の中が騒がしい時期に、孤独な内省におちこみ、生きている人や現在の状況と対話するのではなくもっぱら死者や過去と対話しているとしか読めない(本当にそうだったかはともかく)。西行や実朝にしても、乱世の中を孤独とともに生きる詩人として明らかに共感を持って描かれている。

それが今回は、いまの自分のメンタリティが完全にその方向だということをにわかに自覚して、秀雄に同化しながら読んでしまった。このテキストは、防災放送が流れる夕方にサイクリングしてポップな音楽を聴く気分にわかりやすく沿ってくるのだ。とはいえ、それは同時に、そういう唯美主義的な生活観だけではどうにもならないことがあることをそこはかとなく伝えてくるテキストでもある。感傷と内省は救いだが、救いでしかない。はっきりとは書いてないのだが、たとえば徒然草の読解や実朝の人生を描写する文体からそういうふうに読めてくる。その点でも、いまの気分に沿っているのかもしれない。

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スーパーへ。麻婆豆腐を作ろうと思ってショウガと豆腐をかごに入れたあとに、ひき肉が売り切れていることに気づく。棚に戻すのも面倒なので、そのまま買って帰って冷ややっこを食べた。

おそれいります