緊急事態3日目

夜中に目が覚めて所在ないのでこれを書いている。

原稿その他のなんやかやで、ここ数日は根を詰めて引きこもっていた。重めの案件が片づいた直後は、頭が無駄に沸いて落ち着かない。それで、夕方に自転車で町屋を通って(※)荒川の土手まで行った。

(※トークなどでたまに言及しているが、ここ数年日暮里から荒川区方面の土地に対して変なこだわりがある。美学の話な気がするので、そのうち何かで書こうかなと思っている。)

ブロック肉を買ったときは1週間くらい引きこもろうと意気込んでいたのだが、ぜんぜん予定通りにいかない。まあ気分的に外に出たくなるのはしょうがない。社会的には不要不急でも個人的には不要不急でないことはあるのだ。しょうがない。

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よく晴れていて風が微妙に寒くて気持ちいい。そのへんを出歩いている人の数は、それほど変化がないように思える。マスク率は9割以上か。自転車で走りながら、人が何らかの汚染物に見えてくる。疫病というのはそういうものなんだろうと思いつつも、気持ちのいい世界の見え方ではない。

人とすれ違うごとに、その距離に応じて毒を受ける確率が何%、相手がマスクをしていなければ+何%、毒を受けた後に死ぬ確率が何%……などと書くとゲームっぽいが、実際ゲームと変わらない計算をしている。ゲームと違うのは、何度も試行して最善手を確かめるということができない点だ。人生はクソゲーというのは常套句だが、正確に言うと人生がクソなゲームだということではないだろう。試行を許さないという意味でゲームでないにもかかわらず、ゲームと同じような確率計算を求めてくるという点で、人生はクソなのだ。

このばかばかしさに飲まれないようにするには、確率計算とは別の評価基準を持っておくことだろうと思う。外出する時点でいくらかのマイナスがある。そのマイナスと、自転車に乗ってストレスを解消するというプラスを比較するとどちらが得か? こういう計算をしているかぎり、ゲームですらないクソゲーにまじめに付き合うはめになる。

マイナスはマイナスだ。死ぬ確率は上がる。それはそれとして、いま世界は美しくて気持ちよい。会いたい人にはいま会いたい。そういうのでいいんじゃないかと思う。(これは個人の生活の話であって、社会的な責任はまた別の問題としてあるが。)

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帰りにスーパーに寄る。生肉と野菜は少なくなっていたが、それ以外はそれほど品薄というかんじではなかった。品薄に憂鬱を感じることもなくなったかもしれない。卵、ソーセージ、トマト缶など、それなりに日持ちするものを買う。

帰宅後、料理・食事・入浴でテンションが落ち着いた。次の原稿を書く気分でもないので、なんとなく『A子さんの恋人』を読み始める。まだ最初のほうだが、軽めに見えてけっこう重苦しめの話だった。人間の話ばかりだからだろうか。読みながら寝落ちして、夜中に目が覚めてしまった。

おそれいります