緊急事態17日目

最近の政治は悲劇を超えた喜劇になっていて、何も言う気が起きない。ここ数年ずっと苦々しい気持ちで、いまさら言うまでもないというのもあるが。

いずれにしろこの事態は、大きく見れば、責任者が責任をとらない(あるいはそもそも責任者が明確でない)ことがこの国の社会のあらゆるレベルで常態化していることの帰結なんだろうと思っている。個々の組織や個人のようなミクロな要素に構造的な問題の原因を押しつけたくはないのだが、実際そういうところに根本的な問題があるとしか思えない(しっかりした責任者がいる組織や部署はだいたい健全なので)。この機会に少しはまともな社会になるといいが。

***

やたら長引いていた原稿がようやく片づいて、次の原稿に移る。次は描写の哲学のサーベイ的な内容なので、描写の哲学の古典をぱらぱら読んでいた。

フリント・シアー(Flint Schier)のDeeper into Pictures(1986年)は描写の哲学の重要文献としてしばしば引かれるものだが、今回はじめてまともに読んだ。このシアーという人は、この本が出版された2年後に30代半ばで亡くなっているようだ(BJAの追悼文)。この著作以外で名前を見ない理由がわかった。

シアーは、先行する議論をコンパクトに整理したり、言語哲学の枠組み(指示・述定の概念や真理条件的意味論)を描写内容の理論に積極的に導入したり、画像的な記号システムに特徴的に見られる自然生成性(natural generativity)を定式化したり、再認能力という観点から描写の本性を説明したり、とかなり重要な仕事をしている。生きていれば、いまの描写の哲学の主流とは別の流れが豊かに展開していただろうと想像してしまう(論点のかなりの部分はロペスのUnderstanding Picturesに受け継がれているが)。

***

いま自分が死ぬなり研究からドロップアウトするなりしたときに、自分が関わっている業界に何か影響はあるだろうかと考えることがたまにある。多少は影響あったり、場合によっては惜しまれたりもするかもしれない(逆にとくに影響ないかもしれない)。しかし、そのことは自分にとってどんな意味があるんだろうか。

シアーへの追悼文には「ブリリンアントなキャリアがこの先かれを待っていたのに残念」的なことが書いてあるが、それは死者の才能とそれによるありえた生産物を惜しんでいるのであって、つまるところ人を有用性にもとづいて評価している(つまりモノ化している)わけだ。それが何か問題だと言う気はないが。

他の人にとっての自分の研究の意味と、自分にとっての自分の研究の意味は、もし違うとすれば、どう違うんだろうか。自分の研究活動が主に前者によって動機づけられているという自覚があるので、そのへんもう少し整理しておいたほうがよさそうだなと思った。

***

ひき肉がまた売り切れていて、豚ブロック肉しか残っていなかった。また数日間角煮で過ごすことに。

ついでにホットケーキミックスも売り切れていた。「とくにすごく買いたいわけでもないが、なんとなく買いたいもの」が買えないのは、なぜかすごくストレスフルだ。「なんとなくxしたい」は「あたりまえのようにxできるはず」を暗に含んでいるからだろうか。最近は頻繁にこのストレスを感じる。

おそれいります