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【15】『かもめ』(チェーホフ)

1.

 あまり有名ではないかもしれないが、『諸君の位置』と題された太宰治の随想があり、個人的に気に入っているばかりか、長い間学生生活のある種の指針ともしている文章がある。そう長くはないし、青空文庫で読める。

 僕は太宰の生活自体に信用を置いていないし、ましてや彼の信奉者でもないが、この文章自体にはいろいろポジティブに捉えられるところがあった。

實生活に於ける、つまらぬ位置や、けちくさい資格など、一時、潔く抛棄してみるがよい。諸君の位置は、天上に於て發見される。雲が、諸君の友人だ。

 大学で学生生活を3年間送ってきたが、彼の言う通り、これは決して「甘い観念論」ではなかったように思う。青年のアイデンティティほど不安定で、自他にとっても暴力的なものはないし、日本にはそういう危険な心を抱えた人間が何百万単位でいる割に平然と社会が生きているような気がして不思議だ。我々は何者で、何をなすべきなのか、という極々平凡な問いは死に関する考察と関連してくるし、人生で最も重く苦しいものであるはずである。そんな学生に「時間」という呪いが与えられると、彼等は必死に何者かになろうとしたり、あるいは社会に居場所を見つけようとする。そういう成り行きで、優秀な人間の多いコミュニティほどありがちだが、社会人の真似事がうまい人間の地位が格段に向上する。バイトやインターンに励んで社会貢献をするのはもちろん、ビジネスに取り組んでみていくら稼いだとか、労働先でチーフマネージャーの地位を得たとかいう例も出てくる。だが学生にこんなものが果たして必要なのだろうか、というのが彼の問の出発点であり、同時に否定的な答えになっている。

世の中に於ける位置は、諸君が學校を卒業すれば、いやでもそれは與へられる。いまは、世間の人の眞似をするな。美しいものの存在を信じ、それを見つめて街を歩け。最上級の美しいものを想像しろ。それは在るのだ。學生の期間にだけ、それは在るのだ。

 大学生である我々も数年のうちに、社会の一部となる覚悟を持たなくてはならない。就職するしないの話ではなく、アカデミアにしろ資本主義社会にしろ、何かに奉仕しなければならない。そして現代社会の動く原動力は金と、地位と、権力への欲望である。これを獲得すると人間はかなりの喜びを感じる以上、何かしらの美しさがそこには潜んでいるのかもしれない。しかしこれは性欲や支配欲につながるような、獣的で野蛮な欲望ともいえる。もっと価値があって美しいとされるもの、最高善とされるものは厳然と存在するわけで、この世に人間として生まれた以上、それを追求することが「よりよく生きること」として世界から自然に提示される。社会が多忙さと愚かさゆえに排除しがちな、価値ある偉大なものの探索や発見、これが学生の使命である。ここでいう偉大なものとは、すぐに貨幣や地位に変換されうるような軽薄なものではないのである。歴史に守られてきた文学作品や音楽、あるいは純粋な知的好奇心を満たす自然科学などがそれである。いずれは我々も社会の一員となる。残念ながら社会はそういったものを重んじる余裕がないために、後々価値観の変更が余儀なくされてしまうかもしれない。そうなったとき、学生の時持ちえた「偉大なもの」に対する感覚というのは不可逆的に失われてしまう。だからこそ、今それを存分に味わう必要がある、という風に僕は解釈したわけである。だから理論物理の勉強にも励んだし、時の試練に耐えた古典文学や音楽を存分に楽しむことにした。楽しむ、とは決して漠然と遊蕩に耽ることではない。『エチカ』にもあるように「すべての高貴なものは、まれであるとともに困難である」のだ。その困難に対する奮闘というのが、学生に対して与えられた特権なのであろう、そう僕は理解した。学生がその本分を終える時、「私はかもめ」と叫ぶ人が、実際何人かでてくるのではないか。

 大分話が脇道にそれたが、チェーホフの話をしようとすると個人的には太宰治を経由せずにはいられないのである。彼はチェーホフを愛読していて、彼の作品にもその影響がある(『斜陽』の背後に『桜の園』を思い浮かべるとよい)。時折学生を鼓舞した太宰に大きく作用したチェーホフという人間および作品はどんなものだろう、というのが『かもめ』を読む一つの大きな動機だった。『かもめ』は演劇であるから、本から得られる想像をリアリティで補うことが出来る。Youtubeに動画が上がっていて、酒を煽りながら楽しく鑑賞することが出来た。

2.

 社会なぞ元から狂っている。本当に価値あるものや美しいものは、資本主義社会の中では見向きされない傾向にある。そういうものは大抵例外なく難解で、鑑賞するには時間がかかるし、そういう悠長が許されない社会システムだからだ。『かもめ』は文学創作に熱心な二人の人間、トレープレフとトリゴーリンに多くのフォーカスのうちの一つを当てている。僕がここで考えるのは、見えない高みに向かってわき目もふらず奔走するトレープレフを、太宰はどのように見ていたのだろう、という事である。太宰には少なくとも、自分が文学で食べていくことになるという悟性はあったはずだ。その先にトリゴーリンがいる。彼の大いなる目標としてか、文学という地獄の中で苦しむ運命をたどった孤独な人間としてか、そんなことをあれこれ詮索するのは止めておくけれど、言葉にし難い夢のようなものを見て、惚れ惚れとしているという点では共通しているような気がする。二人は各々が違った苦悩を抱えている。若い人間特有の自意識や自尊心は確かに存在しており、人からそれを損ねられるとかなり大きな傷となって心に残る。世間の大部分の人間は自分の抱えている夢や野望を理解してくれない、誰にも若い心はあったはずなのに。これがトレープレフの抱えた苦しみの一つである。演劇を鑑賞した中でたった一人、ドールンだけが彼を理解してくれていた。

そう、君は抽象的な思想に題材を取っている。何しろ芸術作品は何らかの大きな思想を表明すべきものだからね。真剣なものにのみ美はある。(中略)ただし、重要で永遠不滅なものを描くことだ。君も知っての通り、私は人生を面白おかしく好き勝手に生きてきたし、そのことに何の不満もないが、でも、もし私が、芸術家が創作の際に味わう精神の高揚というものを知っていたなら、この手垢にまみれた生活やその生活にまつわる一切を唾棄しべきものだと見なし、浮世を遠く離れた精神の高みに逃避したことだろうな。

 第1幕での失敗があっても、トレープレフは創作を続ける。母親に理解されなくても、彼は魂を燃やし続けることを辞めない。同時に彼はニーナという女性に、恋心とも憧れとも断言できぬ大きな感情を抱いていて、それがひょっとすると彼の大きなモチベーションとなっていたのだろう。こういう複数の激しい感情を抱いて何年も過ごし続けることは、若い時分にしかできないことだ。どれだけ真実で抽象的な思想を胸に抱いていたとしても、ニーナという一人の女性に対する失敗によって、彼の自殺という結果に結びついてしまった。これを喜劇とみなす風潮すらあるのはなぜか、それはセクションを改めて考えることにする。
 第2幕で語られていた、既に作家として成功したトリゴーリンの人知れず抱えていた苦しみはとても印象深いものだが、ここではあまりに長くて記すことは出来ない。それを若くて希望に満ち溢れているニーナはすぐに受け入れることが出来なかった。「名声に慣れているから」とまで極言した。この点彼女もトレープレフと似た感情を抱えていて、第4幕においてある種の緊張と共にそれが衝突するのである。彼女が夢見ていた女優の世界は「耐えることができるかどうか」の試される苦しい世界だった。

私たちの仕事で大事なのは、名声だとか栄光だとか、私たちが夢見ていたものではなく、耐えることができるかどうかなの。十字架を背負って歩みながら、自分のやっていることを信じ切れるかどうかなの。

 ここに作品の肝がつまっている。トレープレフがこのことをわかっていなかったとは言わない。しかし彼の悲劇性は結局死ぬまで自分のやっていることを信じ切れなかったことにあった。

3.

 最後に、「『かもめ』を喜劇として見れるようになれば、人生はずっと楽になる」という言葉の意味を考えることにしたいと思う。正直僕はこれを一種の悲劇としてとらえていて、それが単純に未熟だからとか、青二才だからとか、そういう理由で片付けられるものなのかわからない。でも、「どんなに辛いことがあっても、いつかは笑って話せるようになる」というのはいろいろな人が口にするところである。その真実はさておき、『かもめ』の登場人物たちに関しては、今まで送ってきた人生を悲嘆したり、文学創作がうまくいかなかったり、そして恋愛に関しても何度もすれ違いが起きたり、親子関係がうまくいかなかったりと、誰もが面白いほどうまくいっていない。ひょっとすると、今「面白いほど」と書いたのがポイントになるのではなかろうか。大抵の夢はかなわないし、世界は思い通りにならない。何十年か人生を送った末、この作品を見返してみて、不器用な自分と重ね合わせて人生に対し微笑する。チェーホフが「喜劇」と呼んだのはそういう一種の哀愁なのかもしれない、と締めくくっておく。太宰の自殺はトレープレフに似た結末だが、それは喜劇的なものたりえるか?現実で起こったことである以上、僕はそうは思わないけれど…。

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