【34】『遠野物語』
1.
小林秀雄氏の晩年の講演に『信ずることと知ること』という有名なものがある。
大昔の人たちは、誰も肉体には依存しない魂の実在を信じていた、これは仮説を立てて信ずるという点で、近代心理学者と同格であり、何も彼らの考えを軽んずる理由はない。精神より物質を優位に捉える仮説では、いろいろ不都合が生じることになるなら、精神は、無意識と呼んでいい近づきがたい、謎めいた精神的原理の上に立つと考え直してみるのもいい事だ。新しい道が拓けるかもしれないのです。
自然科学にしばらく携わっていると、物理学的な見方が世界に対する唯一の視点であるような錯覚を覚えてしまうけれど、決してそんなことはない。科学もある種の宗教、自然は合理的かつ数学的に整備できるという信念に基づいた活動なのだから、『遠野物語』にあるような怪異譚を科学的に吟味して、難詰するのは愚かなことである。小林氏が『信ずることと知ること』の中で、現代の知識人の見落としがちな、人間本来のどうしようもない心理について語っている。現代人はお化けや幽霊の話を聞いても心の中で舌を出しがちである、しかしそういう怪異に対して企てられた反逆が成功しているわけではない。心のどこかに沈殿して離れない怖れというものがある。合理的社会や学問が幻想を弾く活動だとしても、小林氏の言葉を借りれば「天与の情」を結局人間は持っており、そことの溝を考えない限り「情操教育」の成功はない、という。「新しい道が拓ける」とはいうが、原始的な在り方や自然な生活はむしろ昔の日本人が無自覚に切り拓いていっている。そこにうまれた物語の集積として『遠野物語』があるのかもしれない。代々受け継がれてきた伝統や祭儀の根源もそこにあるはずで、これらの物語を見つめなおすことで日本人の心を見直すのではないか、そんな意味にとらえることもできるし、それを具体的に執り行ったのが『共同幻想論』におけるいくつかのセクションである、ともいえる。
2.
印象に残った話をいくつか挙げる。
オクナイサマを祭れば幸多し。土淵村大字柏崎の長者阿部氏、村にては田圃の家と云ふ。此家にて或年田植の人手足らず、明日は空も怪しきに、僅ばかりの田を植ゑ残すことかなとつぶやきてありしに、ふと何方よりとも無く丈低き小僧一人来りて、おのれも手伝ひ申さんと言ふに任せて働かせて置きしに、午飯時に飯を食はせんとて尋ねたれど見えず。やがて再び帰り来て終日、代を掻きよく働きて呉れしかば、其日に植ゑはてたり。どこの人かは知らぬが、晩には来て物を食ひたまへと誘ひしが、日暮れて又其影見えず。家に帰りて見れば、縁側に小さき泥の足跡あのたありて、段々に坐敷に入り、オクナイサマの神棚の所に止りてありしかば、さてはと思ひて其扉を開き見れば、神像の腰より下は田の泥にまみれていませし由。
三島由紀夫氏が「ここに小説があった」と三嘆これ久しうした炭取りの話は有名であるが、「田の泥にまみれていませし由」もまさにこの議論に当てはまるであろう。家に点々と泥の跡がついていたその時、神像が泥にまみれてしまったのを確認した時、もう逃げることはできない、今まで見てきたものを幻覚として切り捨てることは出来なくなってしまう。このように、既に見てきた遠野物語には謎めいたリアリティとも呼ぶべきものがあって、日常生活を送っていてはまず信じられないような話も、一気に物語としての命を輝かせる不思議さがある。僕は『遠野物語』の技巧分析を試みたいわけではないからあまり深堀はしないけれど、こうした生々しさをもつ物語が、決して職業作家の手によってではなく、純朴たる生活のなかからいくつも生まれてくるというのは、驚くべきことだ。一旦そんな話は置いて、純粋に物語の断片を味わっていこうと思う。鑑賞に雄弁は必要ないだろう。
人の名は忘れたれど、遠野の町の豪家にて、主人大煩して命の境に臨みしころ、ある日ふと菩提寺に訪い来たれり。和尚鄭重にあしらい茶などすすめたり。世間話をしてやがて帰らんとする様子に少々不審あれば、跡より小僧を見せに遣りしに、門を出でて家の方に向い、町の角を廻りて見えずなれり。その道にてこの人に逢いたる人まだほかにもあり。誰にもよく挨拶して常の体なりしが、この晩に死去してもちろんその時は外出などすべき様態にてはあらざりしなり。後に寺にては茶は飲みたりや否やと茶椀を置きしところを改めしに、畳の敷合へ皆こぼしてありたり。
閉伊川の流には淵多く恐ろしき傳説少なからず。小國川との落合に近き所に、川井と云ふ村あり。其村の長者の奉公人、ある淵の上なる山にて樹を伐るとて、斧を水中に取落したり。主人の物なれば淵に入りて之を探りしに、水の底に入るまゝに物音聞ゆ。之を求めて行くに岩の蔭に家あり。奥の方には美しき娘機を織りて居たり。そのハタシに彼の斧はたてかけてありたり。之を返したまはらんと言ふ時、振り返りたる女の顔を見れば、二三年前に身まかりたる我が主人の娘なり。斧は返すべければ我が此所にあることを人に言ふな。其禮としては其方身上良くなり、奉公をせずともすむやうにして遣らんと言ひたり。その爲なるか否かは知らず、其後胴引など云ふ博奕に不思議に勝ち續けて金溜り、程なく奉公をやめ家に引込みて中位の農民になりたれど、此男は疾くに物忘れして、此娘の言ひしことも心付かずしてありしに、或日同じ淵の邊を過ぎて町へ行くとて、ふと前の事を思ひ出し、伴へる者に以前かゝることありきと語りしかば、やがて其噂は近郷に傳はりぬ。其頃より男は家産再び傾き、又昔の主人に奉公して年を經たり。家の主人は何と思ひしにや、その淵に何荷とも無く熱湯を注ぎ入れなどしたりしが、何の效も無かりしとのことなり。
3.
遠野物語のリアリティが流布した結果として、それが畏敬の念であることを超えてある種の行動制限となり、それが社会共同体の規範に変貌を遂げるということもあるかもしれない。吉本隆明氏も、『共同幻想論』の中でこう述べている。
私たちはただ、公権力の<法>的な肥大を、現実の社会的な諸関係が複雑化し、高度化したためにおこった不可避の肥大としてみるだけではない。最初の共同体の最初の<法>的な表現である<醜悪な穢れ>が肥大するにつれて<共同幻想>が、そのもとでの<個人幻想>に対して逆立していく契機が肥大してゆくかたちとしてもみるのである。
遠野物語における「最初の<法>的な表現」とは何であったか。全編を読んでいても「醜悪な穢れ」と呼ばれるようなものはなかった。しかし民衆を畏敬や信仰などに導く現象などは確かにあり、それがオシラサマやオクナイサマの話につながっている。偶像だけではない、狼や鹿などの野生動物などの見せる怪現象などについても同様である。彼等は生活をしているというより、自然は魂を持っていて、それに生活させてもらっているという自覚をひょっとしたら持っていたのではないか。狼や大津波などに命を奪われることはあっても、幸か不幸か共同体の生活は続いていくのである。ここに生まれた土地で生きていくことの覚悟があり、謙虚さがある。こういう根源的な規範が発展し、やがて法的拘束力となって、国時代を包み込むのかもしれない。『遠野物語』の考察ないし民俗学の追求は国家形成に関する一つのヒントになりえる。それを提示したのが吉本隆明の『共同幻想論』でもあった。
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