33歳で身体障がい者になった私の社会復帰までの全記録4

昏睡から目覚める
賽の河原で佇んでいた私は、やがて、どこからか、
「大・・・大・・・」とわたしの名前呼ぶのがどこから聞こえてきた。
しかし、賽の河原は霞んでいて、視界がはっきりしない、
(私の名を呼ぶのは誰だ・・)
私は、こえの主を探し始めた。
やがて、視界が徐々にクリアになってくる。
それは、母の心配そうな顔だった。
(なんや・・・・おかんか・・・)
そして「大わかる?あんたの出血で倒れて手術してんで!
覚えてる?おぼえてないか」
いつもの
明るいおかんのこえだった。
「あんた、気管切開したからこえだされへんよこれに書き」
と、
クリップボードに使い古したノートとぺんをわたされた。
・・・筆談である。・・・・・
でもひらがなのぼーど指さしたり、
目線でカーソルをう動かして文字を打つ
でもそれは、ALSとか、脳性麻痺の人が使うツールである。
筆談の私は、まだましだったのかもしれない・・・。
そういえば筆談ホステスっていたな・・・などと、あほなことを考えた。
因みに当時の
私のからだの状況はというと、
喉は、手術中の処置で気管切開され、
カニューレという器具が挿入されていた。
カニューレから、人工呼吸器に接続されていたらしい、
因みに、わ私の喉仏の下には、
その時の傷跡が残っている。
その傷跡は、私の“生きてきた証”だと思っている。
そして
鼻からは、チューブが通され、
チューブには、経鼻経管栄養材の容器がつながっていた。
「あんた飲み込まれへんからご飯たべられへんよ・・・」
「何!!
ショックだった。
もう固形での食事はもう取れないのである。
このチューブが私の唯一栄養源なのだ・・・。
そして、
珍棒には、カテーテルが通され、
おしっこが、
接続されたふくろに溜まって行った・・・。
それはつまり、もうといれで小便はできないのだ。
それでべっどにねかされていた。
ベッドのよこには、
鼓動に合わせてリズムを刻む心電図計と、
指先に当時はまだ、マイナーだった、パルスオキシメーターが挟まれていた。
じっとねていることしかできない。
もう自分が生きているのかしんでいるのかもわからない。
自由にしたいことも一切できないのである。続く・・・

さてじっとよこになっていると、
なにやら喉に違和感が・・・
どうやらのどに
痰がたまってきたようである。
でも症状は、声でつたえられないので、
のどを指さしてアピールする。
すつと母が
「何?痰たまってきた??」
ときくのでうなずく。
するとははなースコールして
「痰の吸引お願いします」
とインターホンで答えた。
するとほどなくして、
ナースが、
がらがらと
ワゴンをお押して現れた。
わごんには、チューブがのせられていた。
ナースはなれた手付きで、ちゅーぶを、
吸引口に取り付けると、
それを私ののどに突っ込んだのだ
ずずっ!
痰は吸引されたが、苦しかった。
涙がでた。痰がたまる度にこれが行われると
考えただけできが遠くなった・・・。

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