見出し画像

没後90年 萬鐵五郎展@神奈川県立近代美術館 葉山(2017.7.1ー9.3)

マンテツ・ゴローではありません。よろず・てつごろう、です。
しかし、この誤読のどことなくユーモラスな響きと字面はそのままにしておくには惜しいという直感を周囲の方々も得たようで、知人のなかには親しみを込めて彼のことを「マンテツさん」と呼ぶ方もあったようです。
少々ユーモラスに過ぎるような気がしないでもありませんが、この短文でも「マンテツさん」と呼んでみることにしましょうか。

風土が育む前衛の輝き
マンテツさんは、岩手県の小さな町で生まれました。花巻から東に向かって車で15分ほど走ると到着するのですが、この土沢という集落をめぐる風光は彼の芸術が形成されるにあたってかなり重要な役柄を演じることとなります。
かつて私が土沢を訪れたのは初秋の頃でしたが、明治期には内陸交通の中継点として栄えた記憶を留める素朴な町並みと、なだらかな丘陵が続く周囲の豊かな自然の取り合わせがまことに印象深く、マンテツさんの芸術というものは、澄んだ空のもとに広がるこの地の稔りそのものなのだなあと思わされたものでした。
明治18年、上記の内陸交通を担う回送問屋を営み、なおかつ大地主でもあった萬家の分家に生まれたマンテツさんは、本家の祖父に可愛がられるあまり、中学への進学を断念させられます。中学校へ行くには花巻に出なければならず、祖父は彼をずっと手元に置いておきたかったのでした。――しかしここがポイントですが、その代償としてマンテツさんは学用品はおろか、写真機やらヴァイオリンやら、彼を溺愛する祖父から何かとそのような熱中を誘うツールを買い与えられたのです。
少年期のつかの間の自由な文化的蕩尽は彼の中にあった芸術の核を目覚めさせ、育むことになりました。すでに日本画を独習していた彼はこの頃水彩画というモダンな表現に出会い、ひたすら絵画の創作にみずからを投企してゆくこととなります。

豊かな稔りを生む自己形成の振り子
芸術家はいかに芸術家になっていくのか――芸術の評価において、細かく作家の生育歴を追っていくことに普遍的な意味があるのかどうかはわかりません。しかしながら西洋と東洋、故郷と東京、アカデミックな絵画と前衛的芸術思想など、一見対立するような事象の間を激しく振り子のように揺れながらみずからを創り上げていったマンテツさんの自己形成の姿を綿密に見つめない限り、あっという間に私たちの目の前から彼の芸術の生み出す意味は分解されて、様々な意匠の奔放さだけに目を奪われてしまうように思えます。
今回の展覧会では、決して長いとはいえないその画業の季節を順に追って丹念に観てゆくことにより、彼の育った土地が芸術の形成に大いなる力をもたらしたであろうことをまず理解させてくれます。ていねいではありますがごく控えめに記された展示解説も、理想の表現を求めてあちこちに飛び回った彼の画業の力を養う場所であった土地、故郷の土沢の意味の大きさを繰り返し述べています。常に前衛的ではあっても、その表現するところの核が故郷の風景の追憶から離れないところなどは、「東北」という風土全体への視線も彼の芸術を考えるにあたっては当然ながら必要なのかもしれません。
ところで振り子のように揺れるといえば、彼の初期の代表作《裸体美人》に至る行程はまさにその代表的な振れ幅を見せるものでしょう。なにせマンテツさんときたら、東京美術学校にトップの成績で合格し、そして、おしりから4番めというみごとな成績で卒業するのですから……しかしあろうことか、その卒業制作の作品がこの《裸体美人》であり、なおかつ本作はいまや国の重要文化財に指定されているのです。それだけこの作品は衝撃的であり、それまでのアカデミズム絵画を否定し新たな表現へと向かう、この国の絵画表現自体の転回点として記憶されるべきものとなっているわけです(むろん教師たちにはまったく評価されないゆえのこの点数)。
ちなみに。あまり知られていませんが、この《裸体美人》とともにもう1点卒業制作として提出された自画像は、多少過激なところはあるものの、きわめて端正なデッサン力が発揮されており、どうもこれでようやく卒業にこぎつけた様子が伺えます。裸体美人のモデルとなったとおぼしき夫人を題材に様々な画風の実験を繰り返す女性像と、冷静な観察と諧謔に満ちた表現で、自己を徹底して省察するがごとくの自画像。この夫婦関係を行きつ戻りつするような作品群を縦軸とし、故郷の土沢と後半生の舞台となった湘南の風景を行きつ戻りつする作品群を横軸として、彼の芸術は振り子のように高みへと向かいます。

裸体美人_1912_東京国立近代美術館_重要文化財

《裸体美人》(1912年)東京国立近代美術館蔵

新たな絵画世界――「南画」への解放
もうひとつ、重要な振り子の一端が、展覧会の終わりに近づいた空間にまとめられています。並んでいるのは、油絵と並んで彼の後半生に重要な意味を持つことになった「南画」の一群です。南画とは中国を起源とする文人画の様式で、まあ日本では江戸時代の池大雅や浦上玉堂の描くような水墨画・墨彩画による山水の表現といっていいでしょう。近代的な油絵を描く画家が、一方でなぜそのような世界に打ち込むことになったのか。もちろん幼少期の日本画習得はその大きな要素ではありますが、むしろ油絵の新しい表現を求めているうちに、大きな振れ幅でその対極にあるような南画にぶち当たった、というのが正しいようです。
制作に迷い、生活にも迷っていた彼は、一時土沢に家族ともども帰郷します。故郷での研鑽はもちろん油絵を中心としたものですが、知人らの求めに応じて、マンテツさんの水墨画頒布会なるものが開かれました。地元の人々も彼のことを盛り立てたいのはやまやまですが、油絵は買っても飾れない。軸物であればなんとか……という愛情が感じられますが、帰郷した彼にしてみれば、これも自分の画業を根本から見つめ直すきっかけとなったのでしょう。水墨画の研鑽はそのまま南画の詳細な研究へと至ります。この時期、芸術の先端であるヨーロッパとも、日本の中心である東京とも離れたこの僻遠の地で、そのようにさまざまな手法で周囲の美しい風景を描きながら雌伏の時を過ごした彼の力は、その時期の作品のなかに煌めきながらも、次なる解放に向かって蓄えられます。
そして東京に戻り、体調を整えるために湘南の地に移ってから次々と描かれた彼の南画の表現には、直截な、素朴と言ってもよいほどの身体と精神の解放が感じられます。観る者にそのような精神の自由さを感じさせるのですから、まさにこれは文人画の求める高邁な境涯に至った表現そのものなのでしょう。ずらりと並んだ墨彩の作品群の多くは湘南の地を描いたものですが、ここ葉山の地の明るい陽光のもとでそれらを観ることも静かな感動を呼び覚まします。

南画を油絵に対する振り子の“あちら側”とするならば、湘南の地でその表現と研究に熱中して得た成果は、これから正しく“こちら側”に戻ってくる――はず、でした。昭和元年末のある日に長女を亡くした彼は、非常に落胆し、衰え、翌春に41歳の早い死を迎えます。大正元年に美術学校を卒業し、昭和が始まると消えていった彼の芸術的人生は、大正というぽっかり明るい文化的な時代の豊かさをそのまま体現しているように感じられもしますが、それがどれほど豊かであっても、やはり夭折の無念さは、彼の画業の探求を順を追って観た私たちの胸に響きます。
彼が描いた遺作と言ってよい最後の未完成の裸婦像は、手に不思議な宝珠――仏教的な霊験を秘めた宝の玉――を掲げているのですが、これは宗教的なメッセージなのかどうなのか。何を描いてもどこかユーモラスな部分を隠せないマンテツさんのことですから、そのまま受け取るわけにはいかず、実はここにもまた不思議な振り子の元が隠されているような気がしてなりません。生きていればここから新たに振れ動いて、画業はさらに思いもつかぬ領域に至ったことでしょう。私たちにはもう、落第ぎりぎり劣等生の残してくれた重要文化財を眺めるしか、手がないのですが。

画像2




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?