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大ニセモノ博覧会―模造と模倣の文化史@国立歴史民俗博物館(2015.3.10ー5.6)

千葉県という地域はゆるやかに広がる起伏の中に脈絡もなさげに小都市が点在し、そのうえどの都市もアメリカ中西部のそれらが醸し出すような、街の外縁がぽかんと広がって野に消えるという、なんとも頼りなげな風致を感じさせる土地柄です。
佐倉という町はその千葉のど真ん中にあって、頼りなげながらも中世以来現在まで連綿と城下町としての結構をしっかり保って来ました。
ここに国立歴史民俗博物館が誘致された折には、またえらい遠いところに建てたな、と感じる一方で、佐倉順天堂に見るような幕末関東の洋学の中心でもあった場所に、しかも堂々たる残存状態の近世城址の真上にどーんと広壮な博物館を建てるというのは実に歴史と民俗研究の巨大なる牙城というイメージ、これはこれでなかなかよろしいのでは、と感じたことでありました。

国立歴史民俗博物館

ホンモノの館に集結するニセモノたち
城址に粛然と立ち上がるこのいかめしい博物館(建物の構えがどこか三宅坂の最高裁判所に似ている)、むろんこの画期的な展覧会を開催するにふさわしい、国宝などの貴重な収蔵品を何点も抱える「ホンモノ」の館です。上野にある東京国立博物館が明治以来美術系の博物館の中心で在り続けるかたわら、歴史・考古系の博物館の中心が存在しないというアンバランスを修正するために設立されたこの館は、研究機能も備えた(所属する教授・准教授などが存在)大きな規模のものです。
そのマジメな博物館で、今回の「大ニセモノ博覧会」。これは行かねば、ということで遠路はるばる訪れたわけですが、先ず会場の入口に掲示してある「用語の統一」という厳しい掲示にちょっと笑ってしまいました。あくまでマジメな展覧会なのです。しかしここに集結したニセモノたちを眺める前に、この用語統一を頭に入れておかねばならないのも事実。集結したニセモノたちは、どのように分類されるのか?

フェイク&イミテーション&コピー&レプリカ四重奏
先ずは「フェイク」。世間を欺くために製作される贋作、偽文書などです。贋作には現存するものの正確なる模造と、ありうべき作品を勝手に創造する(ある種クリエイティブな)制作物とがあります。
次は「イミテーション」。模倣品です。作る意志としては善意の、あるいは鍛錬としての模造品もあり得ます。自然の存在物のありようを真似て人工物を作るのもこれですね。
そして「コピー」。一番身近な用語です。意志や悪意の介在しない、機械的な転写や複写、複製の意味合いが強い言葉です。芸術品以外には適用が多いものです。
さらに「レプリカ」。写し、といいますか、模型としての製作品。博物館における現物の代替品などがこれに当たります。オリジナルの製作者自身によって作られた写し、あるいはオリジナルの製作者工房の弟子による作品などもこの範疇です。
「ニセモノ」という多少下品な響きを帯びた言葉も、このように考えてみると多様な側面を持っているといえるでしょう。もちろん上記の分類も、すっぱりクリアに4つに分かれるわけでもありません。どこかが重なりあう局面も生じることでありましょう。しかしこの分類を頭に入れておくと、ニセモノたちに出くわしたときに、はたしていかなる意志のもとにこのニセモノは作られ、世に出てきたのかが理解しやすくなることでしょう。これはよくよく考えると、物品に限らず、ひょっとすると人間のふるまい全般にも当てはめることができる観点かもしれません。

美術におけるニセモノ
さて美術と来れば、例の「なんでも鑑定団」を思い出しますね。このテレビ番組のヒットにより、世間では真贋というものがあたかも美術における中心課題であるかのようになってしまいましたが、もちろんそれが重要な問題であることは間違いありません。しかしながら、特に美術においては、真贋の境界線とはどこにあるのだろうと問いかけようとしているのがこの展覧会です。明白な犯罪的偽造は全く弁護できませんが、では例えば若き優秀な芸術家の習作としての模作が後年世に出回った場合は「ニセモノ」、なのでしょうか。 つまりそれは「堂々たる正真正銘のホンモノのニセモノ」なのか。何らかの価値をそこに認める人にとっては、どこかニセモノの領域をはみ出していくのではないでしょうか。
会場にある、雪舟の堂々たるニセモノ、私はこれになんとなく感銘を受けます。いや、絵の出来ではなく、その「雪舟」に向けた熱い視線、なんとか似せようという努力、雪舟を完コピしようという、どこか虚しくも周到な観察力に。価値がない、というのは「鑑定団」的には簡単なのですが、ではまるで「意味」がないのか。
となると、ちょっと冷静に考えてみよう、と思うのです。
雪舟憧憬というものの歴史的位置、画壇における画法の継承と取得の実際、どのように伝来することが美術品の社会的価値を生じさせるのか、あるいはさらに書画を持つ、ということの裾野の広がりと社会・経済の関係にまで、見るべき事実は豊穣にあるのではないか。

美術におけるニセモノ_1

美術におけるニセモノ_2

全きフェイクの怪しく豊穣なる世界
いや、美術品にはまだしも鑑賞の余地などがあるわけですが、文書や印の偽造となると、一気に切迫した社会的事情が垣間見えます。近世初頭の山梨県から長野県にかけては武田信玄の発給した戦功感状と、徳川家康の同じく所領安堵状のセット偽造品が大量に出回りますが、それらはまさにニセモノが必要とされた当時のこの地方の不安定な状況を浮き彫りにしています。つまりここにおいてはある種の反転が生じており、ニセモノが歴史史料としての意味を帯びてくるというわけです。並べられた偽文書の紙質や文字をじっと見ていると、私たちでもははあなるほど、と思える安っぽさや頼りなさが見えてきますが、それら文書の諸形式の系統発生と分布をたどれば、あるいはさらに新たな社会史研究の局面が拓ける可能性すらあるでしょう。
しかし、あまりに需要が多すぎて、最後には木版の印刷になってしまったニセ武田家発給文書を見るとさすがに吹き出してしまいます。サイン(花押)まで印刷って。そこは書こうよ……。

全きフェイクの怪しく豊穣なる世界

ホンモノになったニセモノ
さて、ニセモノでお腹がいっぱいになった最後に、さらにこれでもかというものが現れます。人魚のミイラ。どうでしょう、こういうものに眉をひそめる向きにはもとよりこの展覧会はお薦めできないものではありますが、ここには上記よりもさらにもうちょっと尺の長い、「博物」と「展覧」をめぐる問題まで見て取ることが出来ます。そもそも私たちは何を見にミュージアムに向かうのか。見世物と展覧会を区別するものは何であるのか。目の欲望に対して人間は何を作ってきたのか。何のために蒐集と分類を行なうのか――いやまあ、とりあえず、「ホンモノの人魚」がこの世に存在しない限りは、この人魚はまさにホンモノではありませんか! と、声を大にして言いたいほどの怪奇な出来。見てみませんか。日本文化おなじみの、職人による熟練の技を味わえます。
製作法まで解説で詳述されたまごうかたなき本物感を醸し出す人魚を前に、人間の業のようなものを感じながらも、会場を出たらもはやニセモノの何が悪いのかわからなくなっている自分を発見し、ここにニセモノ派宣言を高らかに唱える私でありますが、さてそうなると見えてくる見えてくる、ホンモノの嘘臭さ。世の商売物の、ホンモノを称する端から垣間見えるほころびに、あなたも注意深くなることは間違いありません。
どうですか、いいでしょう? 今回私が書いたこと全て、何から何まで役に立つ真面目な出来のホンモノですよ? 鑑定書も付けますよ! さあ御一緒に、ニセモノ・ワンダーランドへ――。

ホンモノになったニセモノ

大ニセモノ博覧会_1504_041


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