画鬼_暁斎_KYOSAI_幕末明治のスター絵師と弟子コンドル

画鬼暁斎――幕末明治のスター絵師と弟子コンドル@三菱一号館美術館(2015.6.27ー9.6)

異常なまでに能力がある人物というものは、しばしば能力の評価と同じほどの誤解を受けたまま、歴史の流れのなかで「なにかしらエキセントリックな感じの人」といった印象だけが次第に固定されてゆくことが多いように思います。
そう、芸術・芸能においては、ごく普通に見かけるような気がしませんか。

忘れ去られた男
芸術・芸能というものはむろんそのような「エキセントリックなもの」がいずれにせよ必要とされる領域であるかもしれません。しかし往々にして同時代の評価を受けるのが、人格識見ともに穏当な、人物としても尊敬に値する者であるのは仕方のないところで、近代社会というやつは特に制度として人格と能力の分裂を許さないようなところがあります。そして能力だけが突出した人間は、歴史的文脈をおさえてお利口に緻密な作業を重ねる輩からはしばしば「古い」だの「脈絡がない」だのという誹りに直面して棒立ちにならざるを得ない。「エキセントリックなもの」を理論化・平準化して平等に受け渡して行こうとするのが近代であるとすれば、多少の芸術の能力を自覚する者は常に「わたしはどちらの側に行くのか」と揺れ動かざるを得ませんね。
しかし、歴史に残ってゆく天才たちは、おおむねそんな「近代的自我」なんて持っちゃいません。
そんな天才が、ぽーんと新時代に投げ出されたらどうなるか。
それはまあ、よくわからない、とウヤムヤにされるわけです。そう、暁斎のように。

忘れ去られた男

河鍋暁斎《惺々狂斎画帖(三)》(20図のうち)
明治3(1870)年以前/個人蔵

エキゾチシズムの徒、近代精神を以て日本に突入す
忘れ去られた男――暁斎は、いつ忘れ去られたのか。
今世紀に入ってからの暁斎の復権ぶりは、目覚ましいものがあります。
東京、京都などで大きな展覧会が相次ぎ、もはやその価値を疑う者はないわけですが、評価の低迷する時期が長く続きました。それはつまり、彼の「画鬼」ぶりがなせる技であったといえるかもしれません。技巧と色彩のヴァリエーションを尽くし、何でも描いてみせるその多作ぶりには、作家の精神の反映をいちいち見て取るわけにはいきません。「近代」の側が当惑するそのあっけらかんとした完成度の高さに惚れ込んだのが、イギリスから飛び込んできたジョサイア・コンドルという男でした。

いわゆる「お雇い外国人」として来日した建築家である彼は、自らの異国趣味、ジャポニズムへのあこがれの集約点としての暁斎を発見します。明治初期の東京で、暁斎は結構な有名画人でした。コンドルは彼の超絶画技に惚れ込み、弟子入りします。弟子としての師への傾倒ぶり、また師の弟子への微笑ましき愛は、今回の展観でよく理解できるところです。コンドルは建築学的な綿密な分析力で暁斎の画技を分析し、そこから発して日本芸術全般についての様々な著作を遺しています
あこがれの対象が、そのまま人間となって現れたかのような暁斎。
一緒に旅までする睦まじい師弟愛。
しかし、時代は刻々と移り変わります。絵師暁斎が才に任せて描き飛ばしている間に、近代日本画は洋画との対決という課題を内面化し、新たな価値を生みつつ変容していきます。
幕末から明治初期を駆け抜けた暁斎の時代は静かに終わりを告げ、日本に近代建築を導入し、多くの俊英を育てたコンドルの時代もまた、終焉します。日本に殉じその生涯を日本で終えたコンドルもまた、英国建築史において忘れられた存在となってしまうのでした。

エキゾチシズムの徒、近代精神を以て日本に突入す

ジョサイア・コンドル《上野博物館遠景之図》
明治14(1881)年竣工/東京国立博物館蔵

猥雑さと洗練と
さて暁斎の画業が久々にまとまって紹介される今回の展観は、俯瞰的な視点が取られています。言ってみればコンドルとの二人展ですので、その出会いを紐解くところから。なにしろこの三菱一号館美術館の建物はそもそもコンドルの手になるものですから、展示されたその整然たる設計図を拝見するのはまことに意義あることでしょう。

なかなか興味深いのは、師・暁斎に「暁英」という号を授かってコンドルが描いた日本画の数々です。東洋的な視線で空間を切り取る手法を学ぶというのは、彼にとってどのような経験だったのでしょうか。作品からは誠実に日本画の技法を学ぶ生真面目な性格が見て取れ、そこには師の才を分析的に解体して再構成してみようという意欲的な視線が感じられます。これは手本を繰り返し模写して稽古する狩野派的な技法と画題によるスタンダードな作品が並んでいるのでそのように見えるのかもしれませんが、例えば彼の鯉を描いた作品を近くに並んだ暁斎の同様な作と比べてみると、できうる限り似せてみようというその緻密な執念に驚かされます。
そしてさらに、お手本の暁斎の鯉が、いかに精彩に満ちたものであるのかも。(コンドルさんすみません!)
猥雑な戯画や浮世絵のような風俗画ばかりが注目されがちだった暁斎ですが、一方で狩野派の伝統的手法を駆使して優れた作品を残しています。その洗練ぶりは長らくあまり注目されてきませんでしたが、しかしこれこそコンドルが弟子入りまでして熱中したポイントでした。今回の展観はそのあたりの目配りも効いているので、その画才がいかにしっかりとした技法の習得の上に成り立っているのかが理解されます。彼のある種の猥雑さは、洗練の上に成立した余裕の産物であったといえるでしょう。

猥雑さと洗練と

河鍋暁斎《鯉魚遊泳図》明治18-19(1885-86)年

猥雑さと洗練と_2

ジョサイア・コンドル《鯉之図》明治期
※ともに河鍋暁斎記念美術館蔵

明治ニッポンに交錯する人生
お雇い外国人と日本人画家、という組み合わせについては、いままであのフェノロサと狩野芳崖がその典型のように語られてきました。来日してこの国の古美術に惹かれ、幕末明治という過渡期の処世に悩む芸術家と出会い、確固たる信念に基づく指導によってその芸術家の個性を掴み出し、芸術の近代化に成功する。むろんそれは完結した美しいストーリーであり、理解しやすい構造の物語です。
一方でコンドルは、その建築思想の軸をヴィクトリアン・ゴシックという様式に置き、それは急速に時代遅れとなる運命にありました。中世的なゴシックの美を復興しようとするその思想は、近代以前の豊かな美術と生活を湛える日本という美しい国を理想郷と見る視線の根拠ともなります。自らの活躍の場が狭まるであろう将来を予見したのかどうかはわかりませんが、彼がイギリスを離れ、日本に渡るのも、何か運命じみたものを感じさせます。
師フェノロサの指導により日本画を革新し、個性を投影して近代日本画を切り開いた弟子狩野芳崖。師河鍋暁斎の指導により伝統的日本画の美を吸収し尽くし、近代的な分析と理論化と実践でその価値を西欧に伝達しようとしたコンドル。対照的な二組の「カップル」のうち、今世紀に至るまで、後者の関係はほぼ忘れられていたに等しいといえるでしょう。日本画の進化を是とする史観から見るとすれば、当然のことであろうと思われます。
この「異常なまでに能力がある人」が生産するあれこれが近代的な脈絡を欠いているために、いつか忘れられていくであろうことをコンドルは予感していたのかもしれません。
懸命に師につかえて様々な記録を残そうというその姿勢には、お上に捕縛され獄に繋がれたりもした暁斎の、ただエキセントリックな印象だけが残っていくのではないかという彼の不安が反映しているように思えるのです。

さて、コンドルの情熱には、忘れ去られていく渦中にある彼の建築思想とその存在自体に対するある種の不安もまた、反映しているように思えるのですが――いや、これはまたわたくしの、勝手な存念でしょう。歴史の勝負というものはいつになったら結果が出るのかわかりません。昭和43年にあっけなく破壊された彼の三菱一号館は、ピカピカに磨き上げられて再建され、敬愛してやまなかった師暁斎の作品とともに、今また丸の内の街に輝いているのですから。

明治ニッポンに交錯する人生

2009(平成21)年復元・竣工した三菱一号館

画鬼・暁斎—KYOSAI 幕末明治のスター絵師と弟子コンドル


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