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『並河靖之七宝 明治七宝の誘惑――透明な黒の感性』@東京都庭園美術館(2017.1.14ー4.9)

「忽然と現れる」という言葉があります。
明治期に登場した並河靖之の作る七宝作品の数々を目撃するという経験は、日本美術の伝統の中に突如として独特の感性と技術が浮上する現場に触れる、「眼の快感」とでもいうべき官能的な体験そのものだったでしょう。その体験の衝撃は、当時も今も変わりないかもしれません。

「七宝」世界の再生
しかし、忽然などとはありがちな奇を衒いすぎた表現であろう、というお叱りも受けそうです。もちろん七宝というものは古代からこの国に存在し、桃山期頃から江戸にかけてさかんに生産されるようになり、本邦の工芸のなかで一定の位置を占めていました。
ただし、それらはあくまで刀剣や建築装飾の領分をはみ出ることはなく、つましい存在感で江戸期を過ごしていたように思えます。当時の七宝を表現する「泥七宝」という呼称があることからわかるように、それらは重い色調の、細かいけれども、手の洗練よりどこか労働の忍耐を感じさせるような細工の仕上がりを見せていました。
そして時代は幕末に至り、ここに尾張名古屋藩士、梶常吉という男が現われます。
かつてテレビの時代劇では、貧乏傘張り浪人、というのが定番の登場人物でしたね。要するにアルバイトに精を出す武士。浪人ではないものの、彼は乏しい禄の穴埋めの内職に手を染めた結果、七宝を装飾工芸というサブカルチャーから独り立ちした作品へと進化させることとなったのです。人間の才とはなんともわからぬもの。
そしてここに、さらにもうひとりの貧窮した武家の出の男が、梶の登場で変わりつつあった七宝の世界に生活の糧を求めようと蠢き始めたのです。

明治の美的ベンチャー・プロダクト
大きな変革が訪れた明治という時代にはさまざまなタイプの天才たちが現れますが、並河靖之もそのひとりと言ってよいかもしれません。
彼は武家に養子に入り、京都で公卿の家に仕える家士となっていましたが、そこで迎えた明治維新という時代の変化に対して、身分や環境を前提とせずひとりの人間として何ができるのかを考え抜いたのでしょう。無数の人々が時代の流れに抗することも乗ることもできず埋没していくなかで、七宝を用いた立体作品の美を新たな観点から追究しようとしたことが、新時代を生き抜いた彼の成功の起点となります。
彼は絵師でもなく、むろん工人や職人でもありませんでしたが、その出自は作品をプロデュースする感覚と工房を指揮し営むという経営的センスを両立させるのに適していたものだったのでしょう。鬼才と称される人々がしばしば見せるバランスの崩れたタイプの天才性ではなく、いとなみを総合化する作業においてきわだつ、きわめて近代的な才を持っていたように思えます。そしてその才は、停滞していた七宝に新たな手法を取り入れ、透明感あふれる美を開花させたのでした。

新たな「美」の衝撃
時は1867年のパリ万博を契機に、日本の美に目覚めた欧米の芸術愛好家の視線がこぞって東方に向かいつつある時期。並河は時代の風を読みつつ試行錯誤を重ね、少なからずの挫折も味わいながらも科学的態度で七宝技術の改良に取り組み、展覧会タイトルにもなっているように、「透明な黒」としか表現しようのない、新たな七宝の美の創造に成功します。明治後期に作られた《藤草花文花瓶》(並河靖之七宝記念館蔵)などは、まさにこのようなものは見たことがない、という衝撃を本作の前に立つ者に与えたに違いありません。陶器のフォルムも、七宝という技術も、いわば既知のものではありますが、その洗練がこのような結実を見るという予想は誰にもできなかったのではないかと思わされます。
彼が到達した精緻な七宝の表現は、すべての海外の愛好者に日本の美そのものと受け取られたであろうことは想像に難くありません。しかしここにあるのは、明治という時代が生み出した新たな美的結晶でした。釉薬技術そのものもお雇い外国人の指導を受け、製品の色味には英国人デザイナーの意見を取り入れ、内国勧業博覧会において検討や出品のいわゆるマーケティング的検討も行なう。それらすべてをディレクションするという、視野の広さが並河の芸術の持ち味であったように思えます。

成功と、やがて訪れる忘却
新規テクノロジーによって成立した明治的な美の世界は、当然ながら江戸趣味の横溢した芸術世界からは隔絶していきます。さらにテクノロジーは自らを誇示するため一部ではそれ自体が目的化し、精緻さはますます極まりますが、「日本的」な「風韻」—ワビサビ的な—を送り手も受け手も了解した上で行われる美のゲームの盤上から見れば、ここに「悪趣味」という評価が誕生することにもなるでしょう。「技術至上で過剰装飾的な作品群」という評価が、新時代を切り開いた明治の美術の一部にはその後執拗について回ることになります。
美術に限らず、明治の文化は開明化と反動の間を揺れ動きます。一方で、海外市場は美術という産業にとって新たな確固たる領域として立ち上がり、並河の作品群はそこにみごとなマッチングを見せます。新時代の美は日本の美そのものとして古美術と並び海外で消費され、1878年のパリ万博でジャポニズムの流行が頂点に達すると、もはや揺るぎない地位を占めることになります。
開明化の成果としての海外の評価に対する、反動としての「悪趣味」評価。海外での熱に浮かされたような流行が収まってくると、その後の日本社会と文化の展開のなかで残っていくのは、美のゲームに敗れた者としての「技巧至上の作品群」という明治美術に対する印象と評価です。並河の作品に対する評価も例外ではなく、その作品の大半が海外に存在したこともあり、長らく正当な位置づけを得ないまま時が過ぎたのでした。

そして現在、ゲームの結果は様変わりしつつあります。解像度や彩度の高さを求める、対ディスプレイの情報量の多い視覚体験を重ねた新たな美術受容者たちにとって—私たちのことですが—明治のいわゆる「超絶技巧」の作品群は、まさに求めていた視覚体験であるように思えます。もちろん、私たちは一方で風韻に満ちた茫洋たる世界ももはや忘れることはありません。むしろ、様々な意見と情報を瞬時に検索し表示することが可能な、すべてを公平に評価できる幸福な時代がやってきたということなのでしょう。
そのような時代を迎えたがゆえにというべきか、今回が並河靖之にとってようやく初めての大規模な回顧展となるのですが、この時代に私たちが生まれ合わせ、新鮮な美として並河作品に接することができたという幸福は、結局のところ再評価される彼以上のものになるのかもしれません。

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