戦後日本住宅伝説

戦後日本住宅伝説――挑発する家・内省する家@埼玉県立近代美術館(2014.7.5-8.31)

かつて日本人は、家を建てない人びとでした。日本人、とはあまりな表現かもしれません。もっと限定して、戦前までの都市住民、とでもしましょうか。
戦前の東京のふつうのサラリーマンは、ほぼ借家住まいでした。
明治以降、東京で土地を持っていた地主たちは、下町では江戸以来の伝統を持つ長屋を維持しましたが、関東大震災を期に山の手の開発が進むと、そのあたりの地主は小ぶりの借家を建て始めました。中流の下――まあ、「わたしたち」のような――ホワイトカラー、すなわち大半の事務系労働者の面々は、職人たちの住む下町の長屋ではなく、その小さな家から勤勉に都心に通い始めていたわけです。
しかし、その清廉でつましい東京の生活は、戦時下になると清廉を通り越して貧困の領域に至り、さらにつましく必死に生きる場となった下町も山の手も、戦火によってほぼ焼き尽くされます。日本人と住宅建築の関係は、戦争でフルリセットされました。すべてがチャラになりました。

〈住宅〉と出会う日本人
終戦後、特に都市住民は、焼け野原のなかから生活全体の設計を新たに考え出さねばなりませんでした。仕事や家族のありようから消費や娯楽に至るまで、終戦直後の騒々しくも活力に満ちた生産の華やぎは、都会人の生き方の再構築の歩みそのものであるということができるかもしれません。
当然ながら、生活の主要な場となるのは住宅です。政治というシステムがここに大きく絡む事態が生じます。
少々大ざっぱにまとめると、借家でつましい生活をしていた戦前のようなサラリーマンたちには借金をさせて家を建てさせ、かつ「団地」という新たな住宅システムを導入してオルタナティブも確保する(団地は憧れのモダン生活の場でありました)。――最大の個人消費としての〈住宅〉を経済の柱のひとつとしたことで、都会人の生活の再構築と日本経済の再構築がひとつとなってゆく政策。
わたくしたちの父や祖父は、住宅購入を生活の設計図の中心に据えることとなりました。冗談ではなく、国の再建における政治思想としての「マイホーム主義」がここに誕生したのでしょう。矮小なものを揶揄する語ですが、空襲で一切合切焼き尽くされた地方都市に生まれ育ったわたくしなどには、とてもそれを笑う気持ちにはなれません。

建築と〈住宅〉
都市計画や環境政策を策定し、さらに国家や企業の思想を体現する象徴的モニュメントとしてのオフィスを造る――それが明治期のエリート生産の教育課程で養成され始めた建築家の仕事でした。
もちろん、住宅だって設計はします。しかし当然ながら、彼らの造るものはほとんどが「わたしたちの家」ではあり得ません。それは「邸宅」であり、本質的にはやはりモニュメントというべきものでした。施主と建築家双方にとってのこのような位置づけは、戦後に至っても変化を見せない部分があります。しかし今回の展覧会で明らかにされるのは、戦後の建築家たちが住宅という表現に込めたラディカルな思想が、日本の建築界を世界レベルに押し上げた、新たな要因であるということでしょう。
建築家は、戦後の民主化とともに、巨大な建築思潮とは別に、個々人それぞれがいかに生きるかという思想を住宅に表現するという道を発見したのではないでしょうか。

〈住宅〉と出会う日本人

〈住宅〉表現の百家争鳴
このように見てくると、今回の展示の最初に丹下健三と増沢旬という対照的な作風の作家の住宅が並んでいるのは、なかなか象徴的です。丹下はいうまでもなく広島平和記念資料館や代々木の国立屋内総合競技場を手がけた〈ナショナル・アーキテクト〉ですが、50年代に手がけた自邸は、およそ住まう器という様相を見せない、自らの思想のサンプルのようなものです。戦前の国家エリートの持つたたずまい、ある種麗々しい表現を見せる丹下ブースの対向に配置された増沢旬の《コアのあるH氏の住まい》は、「住まう」ということをシンプルに考え抜いた素朴かつ知的なもので、あくまでその視点は住居内部に発想の元を置いています。建築写真に映えるような丹下の作品から、増沢の、個人生活の充実に力点を起きつつも軽さのなかにモダニズムを体現させようとする近代性に、新しい時代の風を感じることができるでしょう。
同様なことは清家清の作品《私の家》にも感じられますが、続く菊竹清訓の《スカイハウス》には、そういう素朴さとは無縁の「メタボリズム」という近代日本建築史上の大問題をまるごと実物で提示されるインパクトがあります(いや、視覚的ビックリ度では同じく展示されている黒川紀章の《中銀カプセルタワービル》の方が未来過ぎてたまげるのですが)。
このような「住まう」という現実と、自らが拠って立つ主義主張とをどのように具現するのかという問題は、それぞれを縦軸横軸にとってグラフを描けば今回展示されている建築家の面々の位置取りがはっきりしてくるのでしょうが、そのグラフで総合点を高く取っているのが、東孝光の《塔の家》でしょう。
66年に建てられたこの建物は、まず驚くべきことに、敷地はたったの6坪。
今でこそ極小住宅はひとつのジャンルとでもいう状況になっていますが、完成時に、この荒々しいコンクリート打ちっ放しの建物が周囲と建築界全体に強烈なインパクトを与えたであろうことは想像に難くありません。都会に住まうという問題への明快で合理的な解答は、ますます参照すべき建築となっているように思えます。シャープかつ無理のないフォルムは、床面に現物と同縮尺に拡大して大きく再現された設計図で確認できます。
上記の試みのように、今回の展覧会は、美術館で建築を展示するということはいかにして可能か、という問題に取り組んだものともいえるでしょう。巨大に引き伸ばされた写真、正確な模型、腰を据えて見るべきドキュメント・ビデオなどを巧妙に組み合わせて、その建物の現場に行くことのできないわたしたちに、限定された空間で各々の建物の臨場感を得させる工夫がなされています。素人には読み解きの難しい単調な設計図の羅列は極力抑えて、それぞれの建築家の持つ特質を感覚的に掴ませることに重きが置かれており(たとえば白井晟一のブースは彼らしい漆黒の闇に包まれています)、巡回してみると、住宅というものがいかに多様な表現の可能性を秘めているか、それが建築という枠をも超えて見る者の想像力を掻き立てる存在であることに、驚かれるかもしれません。
今回採り上げられた16人の建築家は、そのような意味で、それぞれが驚きに満ちた特徴を持つ表現者であろうかと思います。建築思潮や時代性の制約を超えて、人間が生きるということはいかなることか――建築がその回答を与える手段として住宅に向き合った真摯な時代の証言が、この展覧会で得られるように思います。
東孝光の《塔の家》。この建物は、今でも青山のワタリウム美術館の向かいに現役の住居として存在しています。美術館を訪れた後、その前に立ってみました。
古びるどころか、そのシャープなフォルムはこの街路の景観を引き締め、街の造りそのものを規定しているかのごとくに見えます。
住まうという行為の解釈のひとつが住宅の設計であるならば、50年を過ぎようとする今なおその解答を周囲に主張し続けているという点では、建築家の仕事はまことに業が深いものであり、住む人との共犯関係も同じく業が深いものになりそうです。
戦後「わたしたち」は家を建てて生きることを選びましたが、現在の都市景観を見ると、結局のところ建築家たちと共犯関係を結ぶという重い業を背負いきれなかったのかもしれません。《塔の家》を見上げながら、うろうろと思考は大きなループを描くばかりです。

〈住宅〉表現の百家争鳴_丹下

〈住宅〉表現の百家争鳴_東

戦後日本住宅伝説


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