『日記を書く』ということ。昨日の自分も思い出せないなら日記を書こう。

こんばんは。秋のピークが過ぎ、指先も冷たく、油のきれたコンパスのように不格好に動きます。今日のお話は日記を書く必要性について。SNS、インフルエンサーといった言葉が飛び交っておりますが、私はmixi世代です。あの頃はと思い返しても今は何も変わりませんが、あの頃は皆さんよく日記を書いていたと思います。今は意味のないこと一義的な、つまり、商業的価値や他とつながることしか尊ばれない『雰囲気』ではありますが、あの頃の常識的にはむしろそちらが常識でした。常識とは常に変わります。諸侯無常。あの頃のインフルエンサーはただの、空気の読めない人扱いでしたが、今は憧れの職業までその地位を獲得したようです。


話はさておき、ある程度日記を書いて来ましたが、私自身至らないところもあり調子の良し悪しはあります。欲にハマったときは精神的にやはり、困惑した状態となり、何も気付けないという状態としての事実だけがそこにあります。原因としては、交友関係で商売のうまい話を聞いた後からでしょうか。私の中の豊かさというものが、ネズミの足跡ぐらい小さな音をたててひっそりと消えていってしまいます。すなわち、自分を見失うとはまさにこのことです。私の場合、原因ははっきりとはしませんが、調子の良し悪しで違和感を感じるため、軌道修正をかけているところ。その良い時の見本として日記というものは、本当に役に立つものだと感じました。調子の良い時の自分は、やはり無理がありません。無理なく、自然体で言葉、文章自体にも強みを感じる。自分の言葉というものです。そうでないときはやはり、何かつっかえるような言葉ですね。

感覚として、一度でも豊かさを感じえたのならばそれをまた再現できるように努めれる。これこそ、再現性のある豊かさというものです。その上で日記は重要なもの、さらに今思いついたのですが、規則正しい日課も非常に重要なものですね。

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