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人生海海

壮大な人生

張三堅 2022年2月22日 14:22

  かつて国道318号で、僕と同じ道を行くたくさんの人を見かけた。彼らはいっそう痩せていたし、装備もいっそう粗末だったけれど、僕らは同じ道の上で出会った。
  僕は道のりの中で人の助けを受けてきたし、同時に他の人を助けもした。
青島から出発しラサまで自転車に乗って行く若者に出会った。この人は変速機能のない自転車に乗っていて、洗い替えの衣服1セットだけを持ち、後部座席にはすり減ったタイヤがぶら下がっていた。

  僕は興味が湧いて、少し雑談しようと進み出て、彼になぜ今回の旅を始めたかったのか?と尋ねた。
理由はまたとても簡単、仕事がうまくいかず辞めて、したくてもできない、やる勇気もでないような事をやりたくて、自転車に乗っていたらここまで来たのだ。

  当時同行していた仲間が、サイクリングの初期には体力不足で幻覚症状が出ていたのを思い出した。
止まって休憩している時に、何度か車体が倒れるのではないかと思って、思わず前に出て助けた。
走行速度が遅くなったせいで、暗くなる前に目的地にたどり着けず、僕はただ後方からライトで照らして彼の走行をサポート(保驾护航bǎojiàhùháng 順調に進むように護衛する)することしかできなかったことが何度かあった。
こんなヤツでも中盤以降にはよく僕を眠気から呼び起こして、僕の怠惰的“精神”を追い払い、僕に出発せねばと教えてくれた。

  頑張り続ける(坚持jiānchí 頑張って持ちこたえること)意義とは何なんだろう?と本当に分からなくなる時があっても、粘り強く続けることが、目標を千キロから二千キロへ、二千キロから五千キロへと、どんどん遠くに連れて行ってくれる。このやり抜く過程の中で、僕たちは命の厚みを豊かに拓いてゆくのだ。

  僕はよく身近な人や、たまたま出くわした事、あるいは本の中から、無尽蔵のエネルギーを吸収(汲取jíqǔ)する。
麦家先生の《人生海海》という本を読み終えたあと、人生とは海に浮かぶ孤舟のようなもので、前方にどんな未知と荒波があるのか分からないのだと意識するようになった。
でも人は予見できない困難を前にして、いつも巨大なエネルギーを放出できる──この世界には一見平凡な人がたくさんいるが、彼らはむしろ常人とは違った強さと勇気を持っている。
彼らは僕より更に大きな人生の苦難に耐えてきたが、依然として人生を愛している。

为得一切知,首须无知。(一切の知を得るために、まずは無知であるべし)
为得未有之识,首须经历未识之路。(未有の知識を得るために、まずは未識らぬ道を辿るべし)

この本の視点は少し《最後の決闘裁判》のようで、複数人の視点から記録された上校(大佐のこと)の”波瀾万丈(波澜壮阔bōlánzhuàngkuo 大波のように勢いが凄まじい)”な”でこぼこで曲がりくねった(坎坷曲折kǎnkěqūzhé)”人生のストーリーだ。

”村では、有名な者にはみな異名がある”──この上校にも聞き苦しい”太監(宦官のこと)”というあだ名がある。
彼の身の上は型破り(离奇líqí 奇妙奇抜)で、木工職人に学んでから、その後は経済、また独学で医術を学んだ。
しかし一生独身だったのは、”太監”という呼び名を実証しているようでもあった。

彼は智謀に長けていて(足智多谋zúzhìduōmóu)、知勇兼備(智勇双全zhìyǒngshuāngquán)だった。
彼は日本軍占領地区に潜伏し、特務工作の行動中に、川島芳子に捕まった。彼の下腹部にはまだ字が刻まれており、これは彼にとっての一生の恥辱でもあり、悲劇の始まりでもあった。
  上校はかつて優れた医術のおかげもあって、医院の副院長の座を手に入れる予定であった。
しかし、このすべてが運命のように──彼がもうすぐ”成功する”という時、一人の女性が上校は彼女に性的暴行をしたと訴えたのだ。その年代では、この行為は直接的に上校のビジネスに一落千丈(yīluòqiānzhàng 評判や評価が急落すること)をもたらす。
  本書の中には上校の話がたくさんあるので、ここでくどくど述べる(赘述zhuìshù)ことはしないでおこう。
時間があれば細読をお勧めする。
ここでは”生きるエネルギー”について話したい。
  上校は故郷に帰ったあともまだ、村人の根も葉もない噂(闲言碎语xiányánsuìyǔ くだらない話、根拠ないうわさ)を経験する。
小瞎子(xiāzi 盲目の小男)という本書中一番の悪役が、上校の風呂やトイレを覗き見たことで、上校の身体に入れ墨があることが見つかる。
上校が眠ったあと、死をも恐れず懐中電灯を手に上校の下着を剥ぎ取りに行った。

  最終的に上校は舌を割かれ、手首の腱を断たれる。
依然しつこく村中に上校は男色家(鸡奸犯jījiānfàn 異常性行動者)であるとデマが飛び、公衆の面前で上校の下着を剥いで晒すと、彼の長年の秘密は暴露され、上校はとうとう気が触れて、8歳の子供の知力までIQは急落する。

  僕が思うにこれは彼にとってはハッピーエンドなのかもしれない。国家間の戦争で死線をさまよい(出生入死chūshēngrùsǐ)、仕事場では不慮の災難に見舞われ、村での生活ではさんざん拷問を受ける。最終的に子供のころに戻るというのは、彼にとって一種の解放と救済と言えるだろう。

  ずっと上校の話をして、本書の中の”私”の役割を無視してきた。
  私の父は上校の親友で、秘密を守る上校を助けるため、人から”男色家”と中傷されることを厭わなかった。
  私の祖父は父の潔白を守るために、事実の是非(青红皂白qǐnghóngzàobái 理非曲直)を問わず、上校が”太監”であると噂を流し、上校をこっそりと告発して彼を監獄に送った。

  祖父のやり方は正しかった。彼は父の潔白のためだったのだ。だけど本当に間違ってもいた。彼は事実と自分の良心に逆らって、嘘をでっち上げた。

  ここで一つ話を共有したい──
  あるとき飛行機で出くわした友人は、ちょうど私事で浮かない顔(愁眉不展chóuméibùzhǎn)をしていた。
彼の運転手が飲酒運転をして、ぶつけて廃車にした。
彼は運転手が自らの過失を否認することに悩みつつ、車両の廃棄問題の処理もした。
  しかし、僕は彼に、その時その車に乗ってなかったのを喜ばないのかと言った。
変わらず健康であれば、どんなに大きなトラブルに遭遇しても、処理する機会もあるのだ。

  健康に生きよう!
どれだけ大きなトラブルでも解決できる!
──もちろん優れた心理状態と身の回りの愛も非常に重要で、愛が僕たちをたくましく(茁壮zhuózhuàng)成長させるから〜僕たちは良好な心理状態を保つべきで、まして小瞎子みたいな人を気にしてはいけない!

上校の入れ墨のように、人には多かれ少なかれ、言及されたくない過去があるかもしれない。
僕たちは他者を尊重し、人の身の上の不完全さを許容することを学ばなければならない。
他者を尊重することは態度だけでなく、ある種のスキルでもある。
他人の置かれた身の上を考えることで、人からの尊重を引き換えにすることもできる。

  ロマン・ロランは、本物の英雄は人生の真相をはっきりと見てなお、人生を愛する人のことだと言った。(※There is only one heroism in the world: to see the world as it is and to love it.一般的な訳では「世界に真のヒロイズムはただ一つしかない。世界をあるがままにみることである。──そうしてそれを愛することである」)
  麦家先生は、人生はこんなに絶望的だが、人々は皆上機嫌で(兴高采烈xìnggāocǎiliè 有頂天、喜び勇む)生きていると言った。
  ニーチェは、あなたが深淵を見つめる時、深淵もまたあなたを見つめていると言った。
悪魔の手があなたに向けて伸びていると思った時、天使の翼もまたあなたに向けて呼びかけているかもしれない。
  すべての勇敢に生きる人に敬意を表する!英雄たち、強くあれ!
  人生は潮が満ち引きする海のようなものだ。自転車に乗ったりバスに乗ったりして教室に向かい、昔何度も何度も通った路地に戻り、古びた教室の扉を押し開ける。
放課後帰り道では家へ帰る人の波に溶け込むつもりだったが、やる気充分の自転車はもうどこに向かって走るのか分からなくなっていることに気付く。
グラウンドに行って何周も何周も走り、見慣れたバスケットゴールを通って、どれだけ努力してもゴールリングに届かなかった時に戻りたい。夜の街灯の下でドリブルの練習をしている疲れ知らずのあの姿はまだ見える。
人の生命力が最も光り輝く瞬間、満ち溢れたエネルギーが放たれる瞬間、残るのは何か考えてみて?残ったのは何なんだ!残ったのは……

  荊棘の道が我が命ならば、生命力でもって荊棘の花を咲かせよう。

A WAVY LIFE
人生海海 潮落之后是潮起(広大な人生 潮は引いたあとに満ちる)
你说那是消磨 笑柄 罪过(それは消耗 笑い草 過ちと君はいう)
但那就是我的英雄主义(しかしそれこそ我が英雄主義)

  とある友人(ある”公友”とも言える、公開アカウントでの友人)が僕にメッセージをくれた。「人生は一つの大鍋のようで、鍋底にいる時は、どこに向かって行こうとも、すべて上に向かっているのだ」と。
  鍋底にいる時、手を伸ばす人がいると思っていた。
思いもよらず、油や、立て続けの(接二连三jiēèrliánsān)辛酸甘苦(酸甜苦辣suāntiánkǔlà)……な調味料が次々とやってきて、足をつるつる滑らせるので、言葉にならないくらい苦しい(苦不堪言kǔbùkānyán)。
泳げてよかったと思い直して、油が満タンまで注がれるのを待ってればうまい具合に這い出ることができるのでは?
  僕の母は冷や水を浴びせて僕のアイデアを消した。万が一半分の油しか注がなかったら?
下からまた火を付けて、"熱々の青ガエルの唐揚げ”をあげよう。(さすがはママだ)
  これこそいわゆる成"熟(shú 火が通っているという意味もある字)”かもしれないね( ̄▽ ̄)



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