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最后的決闘

最後の決闘裁判

張三堅 2022年1月22日 21:00

  映画は表現手法において最初と最後が呼応するレトリックを採用しており、二人の騎士の決闘の最初の一撃の後に、ストーリーのフラッシュバックで始まる。

  この種の叙事的スタイルが僕はとても好きだ。
ストーリーの中にいる主人公は三人、ジャン・ド・カルージュ、マルグリット、ジャック・ル・グリ。
映画は三人の主人公の三つの視点から始まる。一つの事件の中でのそれぞれの役割、立場や態度はみな違うため、異なる三つの視点を通して、人間性の衝突、権力間の闘争と封建社会においての女性の地位を見ることができる。

  この映画のキャスティングは非常に成功している。
人物の外見と性格には鮮明な個性があって、明確に対立しているのが特徴的だ。
カルージュは好戦的な雄のライオンのようで、マーガレットは美の象徴で、ル・グリはスラリとしていて優雅で、長髪の飄々とした騎士だ(僕の美的センスとは合わないが、フランス人の美的センスには合うのかもしれない)。

  ストーリーの核心はマルグリットがグリに強姦され、夫に告げた後、カルージュが皇室にル・グリの裁判を行うことを要求したことだ。
しかし権力は組織的に腐敗しており女性の立場が弱かったため、彼らが要求されたのは──神の導きのままに、生死を賭けた決闘をすることだった。

  三つの回憶の中で、僕はいくつか面白い対立点を発見した。
たとえば映画の始まりで、カルージュの思い出では、彼は戦争中にル・グリの命を救った。だがル・グリの思い出の中では、彼はカルージュの命を救った。刀光剣影(刀光剑影dāoguāngjiànyǐng 殺気立つ空気)の戦争の中で、第三の目撃者はなく、一体誰が誰を救ったのか?この問題は、二人の心に恨みの種を埋めた。

二人の男の性格も正反対だ。一人は卑賤の出身で、比較的人当たりがよく、紳士的で、ある程度の数学の才能を有している。
このため傲慢で放蕩で腐敗した政客アランソン伯爵の重用を獲得した。
もう一人は貴族出身の騎士で、実直で、衝動的で、血の気が多い。マルグリットを娶った後、しかるべき領地を与えられず、その領地がル・グリに与えられたことで、再び彼らの間の対立を激化させた。

一年後、排斥されたカルージュはマルグリットのアドバイスを受け入れて、両者間の対立を友好的な方法で解くことを願った。だがしかし、あるパーティで恐ろしい災いの種が撒かれるとは思いもしなかった。
そのパーティの最中に、ル・グリは初めてカルージュの美貌の妻マルグリットを見て、彼女に深く惹きつけられた。
彼にとっては、マルグリットがただ友好と善意を示しているだけの行為で誘惑して、からかっているように見えていた。
そしてマルグリットと親友が語り合っている中で、ル・グリがハンサムだと称賛したことは、その後の法廷での裁判の伏線にもなっている。
  ル・グリはマルグリットの美貌と彼への限りない“愛”に対して抗うことができなかった。
カルージュが外出し、城に人がいなくなった時、マルグリットを残酷に強姦した……マルグリットは死を覚悟して抵抗し、命の限りに叫んでも、ル・グリの鬼畜のような行為を阻止できなかった!
  マルグリットは果てしない恐怖の感情を克服した後、勇気を奮い立たせてこの事実を自分の夫カルージュに伝えた。
騎士として、カルージュは自分の家人の尊厳を守るために戦わねばならなかった!

  映画は法廷へと画面を移す。
冗長な申し立ての最中に、マルグリットは妊娠六ヶ月、すでに“お腹の大きな妊婦”になっていた。

  今回の裁判がこれだけ長々しいのは、最終的に人に命を賭けさせることを、“神”の意思だと証明する必要があるからだ。
これは古臭い封建社会のせいである。
封建的な迷信の社会では、女性は“愉悦”の状況下でのみに妊娠でき、レイプされた女性は妊娠できないと考えられていて、それによって彼女は自ら望んだと批難された。(僕の三観が驚き呆れた!)(三观sānguān 世界観人生観価値観のこと)
  ル・グリにしてみれば、“私は罪を犯したかったわけじゃなく、君が私を誘惑し罪を犯させた”という逃げ口上で、弁解しているのだ。
  そしてマルグリットの親友が名乗り出て偽証し、マルグリットの言葉は下心のある(别有用心biéyǒuyòngxīn)計画だと示した。

  映画の中で最も僕を震撼させたのは、マルグリットが、もし自分の夫がこの決闘に失敗すれば、彼女はただ亡夫の苦しみに直面するだけでなく、自分とお腹の子供も塔の上にくくりつけられ生きたまま焼かれることを知った時だ。
この一見公平に見える決闘は、許可された時点ですでに不公平だった。
天秤の両端にある“チップ”は、一方に三人の命、一方に一人の命だ。

  三人の主人公が織りなすストーリーが、僕に想起させるのは──我々は自分の世界はすべてが独り善がりで、他人の目に映る風景を見ることもなければ、彼らの行く道を辿ることもないということだ。
最も身近な血縁関係を例を挙げると、両親が自分の子供を理解しているとは限らず、子供も両親を理解しているとは限らないのだ。
  カルージュの目には、自分は自信があり、強く、頼もしく、妻を尊重し、気遣い、寛容的に映る。
しかしマルグリットは自分の夫のことをどのように見ていたのだろうか?
利己的で、尊大で、他人の意見を聞かずに無謀に事を進める。
夫婦間の性生活を含めて、彼女に少しも喜びを感じさせることはなく、夫の衝動的な欲望を満たすためでしかなかった。

  マルグリットが、もしお前の夫が負けて、磔台の上で焼かれても、お前はまだ今の訴えを取り下げないか?と聞かれた時、マルグリットは怯まなかった。自分の夫がまだ全然自分に全てを告白していないことに驚いたが、彼女の勇気は恐怖に打ち勝った──彼女はその時代に自らの権益のために闘う女性の代表だ。

  彼女が足掻いている時、彼女の脳裏には彼女に対するカルージュのお母さんの言葉が過ぎっていた。“お前は自分を誰だと思ってる?私の息子が死ぬかもしれない。お前は私たち家族に恥をかかせるだけだ。真相は重要じゃない。お前は私には若い時がなかったと思っているみたいだが、私も強姦されたことはある。必死で反抗し、憎しみを抱いたが、夫に泣きつきに行こうとしたか?彼にはもっと重要な事を気にかける必要がある。そう、私は立ち上がり、生活を継続させた。”

  映画の締めくくりはその決闘に戻って、カルージュは勝利した。
これは本当に神の意思なのか?


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