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また「ハモニカ工場」の事。

一年に一度「ハモニカ工場」の事を書いている、2014年からなので、同じような過去記事が7つ以上はある。

古い記事はどんどん下に行くので、読んで欲しい話は、たまに掘り起こす必要がある。

「ハモニカ工場」というのは早乙女勝元さんの小説で、僕が映画化権を持っている。

しかし、その映画化権もあやしいもので、映画化出来ないまま30年の時が流れた。

しかしまだ、映画化をあきらめた訳ではなく、また今年もまた「ハモニカ工場」の事を書こうとして、田中邦衛さんが、もういない事に気づく。
邦衛さんには出演交渉をしていて、勝手に出てもらう気でいた。


もちろん、邦衛さんの体調が悪いことも、表舞台に出ていないことも、世間と同じレベルで知っていたので、映画化したとしても邦衛さんに出てもらえない事は分かっていた。
しかし、現実に田中邦衛という俳優がいないとなると、その穴を誰が埋められるのか……

僕は「ハモニカ工場」を昭和30年代の日活映画の感じで撮りたかった。
田中邦衛を初めて意識したのは東宝映画の「若大将」シリーズで、その時、田中邦衛は東宝の人だった。

その後東映の「網走番外地」をみると、田中邦衛は東映の人だった。
しかし、邦衛さんは松竹映画にも、日活映画にも出ている。
映画会社のカラーになじむカメレオン俳優と言ってもいい存在だ、今、俳優に映画会社の色を求めるのは不可能だろう。

今、映画を撮ったとして、映画会社の色という、すごく曖昧なものを表現できる俳優はいるのだろうか…… と考えた時、頭に浮かんだのは小林旭だ。

邦衛さんとは違う役だけど、時代遅れの頑固社長にピッタリだと思う。

このあとは過去記事の採録です。

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  1991年頃の話になる。

「クニさん、ハモニカ吹けます?」
「ハモニカ?、なんだよォ」
「作りたい映画があって、クニさんにやってもらいたい役、ハモニカの達人なんです」
「達人かよォ」

当時僕は助監督をしていて、リハーサル室で、平常心を装いながらも、心臓バクバクさせながら田中邦衛さんに出演交渉してみた。

クニさんは出るとも出ないとも言わず、ニコニコと聞いていてくれた。

「ハモニカ工場」と言う小説を映画にしたいと思っていた。

「ハモニカ工場」は早乙女勝元さんの青春小説。若者の映画だけど、どうしても田中邦衛さんにやってもらいたい役があった。

クニさんの役はハモニカ工場の工場長の役でハモニカの達人、ハモニカの音色で、ハモニカを作った人の気持ちが判る。

暗い気持ちで組み立てるとハモニカの音が濁る、幸せな気持ちなら明るい音になる。だからハモニカ工場で働くみんなには明るい気持ちで働いてもらいたい、そういう人だ。

物語の舞台は昭和29年、ハモニカ工場で働く主人公の正一が、ガールフレンドのチヨエの誕生日にオルゴールを贈る事を決める事から始まる。

だが不況の時代である、正一のわずかな給料は全部家に入れている、恋人にオルゴールを贈るから千円欲しいとはとても言えない。

だが、工場長の特別な計らいで、正一は毎日1時間の残業が許される、時給35円の時代、なんとか1ヶ月の残業で千円貰って、上野の松坂屋でチヨエにオルゴールを買ってあげよう・・・。

しかし、さまざまな事件が起きる。 

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原作「ハモニカ工場」の初版本は1956年に出た。

まだ戦争が終って11年。ハモニカ工場で働く若者の誰もが戦争の記憶を背負っている。朝鮮戦争があり、自衛隊が発足し、時代はまた、暗い方向へ向かっていくのではないか、そんな危機感があった。

そんな中でも若者は恋愛し、明るく人生に立ち向かっていく。

話の中には友情も愛情も、悲しみも憎しみも入っている、そして幸福感。僕が映画に求めるすべてのものが入っている。

実はこの小説「明日をつくる少女」というタイトルで昭和33年に一度映画化されている。

それでも長く助監督生活を続け、映画監督としてデビューするなら・・・と考えた時「ハモニカ工場」を映画にしたいと真剣に思った。


まず出版している「未来社」に連絡し、シナリオ化する許可をもらった。

シナリオを書き上げ、原作者に送る。

「明日をつくる少女」のシナリオを書いていた山田洋次監督にも読んで欲しいとシナリオを送る。

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おふたりから丁寧なお葉書をいただいた。

これが映画化権を持っているという唯一の証拠でもある。

シナリオは映画製作会社、ハモニカを作ってる会社、女優さんの事務所・・・さまざまな所に送った。

結果として、映画にならないまま、最初に企画した時から30年の時が流れてしまった・・・

でも、まだ映画化をあきらめてません。





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