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「四万十川」なんでもない映画の事

なんでもない映画の事、恩地日出夫監督「四万十川」。

もうこの映画が公開されてから23年たってしまった。(2014年現在)

悪い映画ではない、でも、すごく評価された訳でもない、この年のキネマ旬報の10位になっている、1位から9位までの作品を見ると、個人的にはもう少し上に行っても良い作品だと思う。

でも、まあ、そう言う事だ。恩地監督にしては、おとなしい作品だったと思う。

僕にとって、恩地作品は2度目の助監督だった、最初はテレビドラマで、セゾンスペシャルという枠の2時間ドラマ「インタビュアー冴子」という、桃井かおり主演の作品だった。

放送は1986年、2時間ドラマにしては大がかりで、かなり大変な撮影だった。

そして「四万十川」につながる。「インタビュアー冴子」ではサード助監督だったが、セカンド助監督に成長していた。

恩地監督は、もの静かでは有るけど、怒らない訳ではない、しかし、感情にまかせて怒鳴るような怒り方ではなく、{困った奴だ!!}的な感じだ。

最初の準備スケジュールから、記憶をたどると、製作会社に呼ばれたのは5月の終り頃か、6月の頭ぐらいだろう、どういう経由で助監督の仕事が来たのかの記憶はないけど、少なくとも恩地さんが僕を覚えていて、また仕事をしてもいいと思ってくれた事がうれしかった。

正直「インタビュアー冴子」では、かなり、ムリに頑張った、狭いロケセットなど、スタッフの人数が制限されるような場所では、サード助監督の僕だけが現場に残され、主演の桃井さんに怒られたりしながら、チーフがやるような現場の進行をやっていた。

まあ、そんな感じでの「四万十川」だったので、がんばらない訳にはいかない。

それに、今回は映画だ、やはり、テレビより映画の方が、後々まで残るという意味で、ちょっとチカラが入る感じがある。



主演は樋口可南子さん、小林薫さん、五人の兄弟で、決まっていたのは山田哲平だけで、あとの子役はオーデションで決められた。

下の写真は衣裳合わせで勢ぞろいした兄弟と樋口さん。

東宝スタジオの適当な所で撮影。この写真以外にも、恩地監督の指示で、兄弟のバランスを見るため、何人かのオーディションで残った子でも、こんな家族写真を撮影した。

長女の高橋かおりは、当時も有名だったが、僕はもう少し田舎っぽい、最終オーディションまで残っていた子の方がイイと思っていたが、お母さんが樋口さんであるなら、あまり田舎っぽ過ぎるのもダメかなと、今になって思う。

東宝出身の監督とは、あまり仕事をした事が無く、東宝のスタジオも初めてで、衣裳合わせなどで、東宝スタジオに入るたびに、ちょっとした、緊張が走った、僕の中で、東宝はちょっと場違いな感じがあった。

↑ まだ昭和が感じられる東宝衣裳部屋前の廊下、ここで、色々な作品の衣裳合わせが行われていたと思うだけで、心が躍る感じ。

おそらく黒澤明監督もここに立って衣裳合わせをした事だろう。

約、1ヵ月の撮影スケジュールが組まれた、映画はここまで決まれば、そのスケジュールでやるしかない、それでもかなりゆるいスケジュールだったと思う、時間をかければイイ映画が出来る訳でもないし・・?

(衣裳合わせが始まる)

衣裳合わせの芹明香さん、左下は安藤庄平カメラマン

石橋蓮司さんの下のお二人は恩地日出夫監督と、照明の佐藤幸次郎さん

映画の舞台は昭和34年あたりなので、当時の、あの地域の風俗、生活の品々など、美術部さんを中心に、まとめられた。

下の2枚のポラロイド写真は川沿いに建てられたロケセット

店の裏側の写真です。

下は5人兄弟、写真右に写る、川に沿った柵は、何処にでもある白いガードレールをはずして、杉皮を巻いて作ったものです。(勿論、許可を取ってます)

上の写真と同じ道、本当は、舗装され、ちゃんとしたガードレールがありました、昭和30年代を作るのも大変。

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ここから下の写真はツナガリ、を記録するために撮ったもの。


撮影中の出来事。こんな事もありました。

さて、いよいよ、スケジュール。まあ、これだけ見ても面白くないけど、撮影はこんな感じで進みました。



映画は{シネマスクエアとうきゅう}で公開された、シネマスクエアとうきゅうも今年いっぱい(2014)で閉館する。

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