屏東の喫茶店でもうひとりのおれとの対話


生来の怠けたがりがたたって、全く病毒日記とはいかなくなってしまった。

なによりここ台灣にいると、そんな病毒との共生(なのかしら、まだそれは早計であろうか。)が日常の一部に刻み込まれつつあるように感じる。

あらゆる決まりごとが生活の端っこに少しづつ溶けていっているみたい。水の中に入れた砂糖みたいだなあと思う。私の知っているとても少ない思いつきでは、外帯(テイクアウト)文化や汽車(オートバイ)大好き文化も、あたらしい生活への小さな変換の浸透を助けているのかもしれない。

最近の会話は専ら中国語です。なぜなら、台北から北に何千キロのところにある(台湾の真ん中は、ほとんどが標高の高い山脈のようなもので東西に仕切られているので、弧を描くように北部へ進んでいきます)、フアンさんのお父さんとお母さんの家で3人暮らしをしているからです。(フアンさんとは仲良しですよ。私とおれが都会暮らしに疲れただけ。)

専ら中国語、すごく気分がいいんです。まだまだ中国語が下手だからという理由もあるけれど。会話の中で事柄をかなり明瞭に伝えることが求められ、文法構造上、因為(なぜなら)…所以(だから、よって)。を使って文章を作るほうが好まれる。さらにそれが言い訳ととられることがない。でもね、結論は後回しですよ。おもしろいなあ。

そしてね、彼らはおれを第二個女兒(2人目の娘)と紹介します。これは照れ臭くも嬉しくもある。

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ことばを摂る。眼で。耳で。その言語を有する人たち共通の文脈で。

硝子体を通過した光が網膜にぶつかり、映像になった視神経は脳に伝達する。音波が鼓膜などを震わせ記号になった音波が聴神経となり脳へ伝わる。この表現が適切か否かはわかりません。

そんなふうに考えてみたら、言葉なんてただの記号でしかないということがよくわかう。あの精興社書体で描かれた、偉大で艶やかで轟々しい直線と曲線と鋭利な先端を含む一文字の連なりすらも、頼りなくみえてしまうのはおれだけなのか。

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一人称はおれでありたい。

女であるおれが私という主語を選ぶということは、そのあとの発言にブレーキをかける選択を自分に課したことと同義なのだ。おれはな、それをよく知っているんだ。

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なんとなく近頃の日本語に相入れないものを感じるので、それらを摂ることを避けようとしている。選ぶようにしている。という方がいいのだろうか。

けれどやっぱり怠けるおれです。十分に気をつけないといけない。



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