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1995年の台湾 クォーター・センチュリー

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昔書いた日記ノートが出てきました。今から25年前の台湾の話をあれこれと。当時の日本人は信じられないくらい台湾に対して無関心でした。その謎の島・台湾で起こったいろんな出来事、食べ物… もっと読む
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一九九五年 台灣⑹ - クォーター・センチュリー 〈蘭嶼〉

蘭嶼は台東市の沖数十キロの先にある離島で、北京語で「ランウィ」と発音する。台東からプロペラ機が飛んでいるけれども、就航率が悪く台東市で何日も待たされた記憶がある。台湾特有のどんよりとした曇天のなか、あちこちを歩いてみたことがあるが、台東で最も栄えているとされる台東駅(※現在の台東鉄道芸術村)の周囲にはさほど大きくない市役所と師範学校、そして観光夜市がある程度で、とりたてて目立つものはなかった。台東新駅(※現在の台東駅)に至っては、さらに輪をかけてなにもないところだったが、十年

一九九五年 台灣⑸ - クォーター・センチュリー

最近の、特に今年度に入ってからぼくは仕事がかなり忙しくなって、台湾に行くどころか日々のことすらままならなくなってしまいました。無聊を慰めるために自室で台湾に関する本を何冊か読んでいましたが、いくつか思い出したことがありましたので、忘れる前に書いておこうと思います。 「再会」 から感じるうすら寒い南国 宮脇俊三氏の「台湾鉄路千公里」は、西暦1980年に氏が台湾を訪ねたときの鉄道旅行記で、少し前の台湾の鉄道について調べたい人にとって(日本人のみならず台湾人においても)必須アイ

一九九五年 台灣⑷ - クォーター・センチュリー

一九九五年の当時、ぼくが台湾で学んだことは、第二次世界大戦後の台湾の歴史そのものであった。 時代の怪獣 ぼくの台湾への理解は今なお断片的かつ不十分なものにすぎないが、日本統治時代から今に至る台湾の歴史はとても暗く、そして重苦しい一面を持っていることに改めて気づかされた。戦後の台湾で二二八事件や美麗島事件が起こったことなど全く知らなかったし、長い戒厳令の時代を単に「不気味」というひとことで片づけていた。これでは「台湾認識」などできない。 当時ぼくは九份を訪ねたことがある。

一九九五年 台灣⑶ - クォーター・センチュリー

当時の台湾では「認識台湾」という言葉が流行していた。日本語では座りが悪い並びなので、ぼくは「台湾認識」とよんでいたが、当時、台湾に関する小さなスピーチを行うときのテーマは決まって「私の台湾認識」というたぐいで、このスピーチを発表しあうことで私たちの台湾への認識が深まり、そして自身の価値観の基盤に組み込まれていったという印象がある。 黒夜光明(闇の向こうにある光明) この頃の日本は「平成」という元号を使っていた。元号というのはアジア諸国で使われている年数の数え方で、現在は日

一九九五年 台灣⑵ - クォーター・センチュリー

ぼくが初めて台湾に足を運ぶまで、台湾に対するイメージといえば、年長者から聞いていた一九七〇年代の台湾の話、つまり冒頭で述べたような売春旅行のたぐいであった。話は少し脱線うえ、かなり長い文章となってしまったけれども、一九九〇年代半ばの台湾を語るための前提として、ぼくが過去に聞いた話のあらましをここに書いておきたい。 啓程好日(いい日旅立ち) 一九七〇年代のアジア旅行といえば、大人の男が売春目的で行くところというイメージがあって、当時の行き先は台湾や韓国が中心で、八〇年代に入

一九九五年 台灣⑴ - クォーター・センチュリー

四分之一世紀今から二十五年前、一九九五年頃の日本人は総じて台湾に無関心であった。多くの日本人は台湾が中華人民共和国の一部であると信じていたし、台湾のことを比較的知っているという人でさえ一九七〇年代の悪名高い売春旅行のイメージがこびりついていたせいで、台湾は女子供の行くようなところではないという偏見を持っていた。当時のぼくはといえば、もともと台湾に特別の興味関心があったわけではなく、アジア諸国は(沖縄も含めて)反日感情の強いところであるという認識とともに、それどころか独裁政治や