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1936年 屏東の記録

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昭和11年(1936年)に屏東を旅した親族の記録をまとめました。ただ、内容は相当えげつないので、読み物と思い読んでいただければと思います。
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2023年1月の記事一覧

一九三六年 屏東⑺ ー 龍涎香は阿片より高く売れる

裸の処女の肌に塗り込む 今日の屏東は篠突雨が降っていた。仕事らしい仕事もなく映画でも見ようと思ったが雨風が相当酷く断念した。台湾には「竹風蘭雨」と云う語があるが(※台湾北西部の新竹は風が強く、北東部の宜蘭は雨がよく降るという意味)、屏東や恒春も相当に風雨が強く台風の銀座であると称される。方便なく旅館に籠もり一日中書き物をしながら新聞を読んでいたが、屏東の話題は甘蔗糖業が殆どで、其の他市尹の動静や妻帯の日本人巡査と蕃女の醜聞、キ印が行方不明になった話が面白可笑しく書かれている

一九三六年 屏東⑹ ー 蕃人の頭目は権妻をマミーと呼ぶ

若松町の見本蕃屋に立ち寄る。先日の蕃人がいたのでコーヒの劣悪振りを抗議すると、奥から小供が泣きながらやって来て「ニホンノオジサン、オトーサンヲイジメナイデクダサイ」と喚き叫ぶ。全然泣き止む気配がないので十銭玉を渡すとケロリとして奥に帰っていった。見本蕃屋には自分以外の客は居らず件の蕃人と雑談していたのだが、流暢な日本語で今度は「処女の品評会」と題する猥談を語るのであった。自分は屏東に蕃人の娼妓はいるのかと聞いてみたら、皆台東花蓮宜蘭から来た土人ばかりで我々はしないと云う答えだ

一九三六年 屏東⑸ ー 台湾のゲロ不味い珈琲

屏東の旅館に戻り、写真や名刺等を整理する。ふと気になって蕃人に売りつけられたコーヒの袋を少し開けて飲んでみるが、殊の外不味い飲み物であった。曾て国性爺(鄭成功)の子孫が日本でカフェを開くも不味さの故に直ぐに閉鎖され、またコーヒは卵殻を混ぜて煮ると丸やかな滋味を得ると云うのだが、屏東のコーヒは煎方が酷く殆ど低劣なる代物で得体の知れぬ雑じり物多数あり、正に鹿の糞のごとし。そもそもアジアは茶業盛んの地であり、コーヒ等似合わないのである。俄か心で半端な物を作る位であれば茶業に専念すべ

一九三六年 屏東⑷ ー 恒春とガランビ

四重渓温泉にてお座敷遊び 今日から蕃地視察である。屏東には四重渓と云う名の名泉がある。行き方は潮州で下車し、そこから貸切自動車で三時間二十円位であるが、たまたま乗合自動車があったので三円程度で済んだ。 四重渓は日本帝国最南端の温泉であり、四季の景趣に富む為一名四時景とも称されている。先年高松宮殿下が御行啓し、現在は益々繁盛していると云う。明治初年に此の地にて日本帝国が残忍頑強な凶蕃を膺懲(ようちょう)し清国から賠償金を得たと云うが、実態は全くの逆で、マラリヤにて多くの兵士