見出し画像

誰がための動物園

■ 動物園とは何か

これは私が動物園に通い始めてから常に考えている命題である。そして未だに明確な答えは出ていない。
何故なら動物園とは人と共にあるものだからだ。人の文化や価値観が変われば動物園の姿もまた変わる。
しかしだからこそ今の動物園を巡ることでこれまでの動物園、そしてこれからの動物園を漠然とではあるが予感することが出来る。
今回はそれを「動物園とは誰のためのものか」という視点から紐解きたいと思う。

1.人のための動物園

少なくとも日本において、かつて動物園とは人のためのものであった。
動物とは人を喜ばせるためのものであり、そのために多くの動物たちは芸を調教されたり見世物として扱われた。

ただここで勘違いしてはいけないのが、即ち動物たちが不幸せであったと判断するのはいささか早計にすぎる。
例え来園者からそのような扱いを受けていようとも、飼育員もまた動物をそのように扱ったとは限らないからだ。
家族のように自宅で共に過ごした猛獣もいる。それこそ飼育知識と経験の不足から不幸にしてしまった命も多くあるかとは思うが、お互いの距離が近い故に恐らく今よりももっと多くの「人と動物の形」があったのだろうと思う。

話を戻すが、重要なのはそこではなく動物園とはかつて「来園者(世間)にとって」見世物であった。という点だ。
今でこそそういった時代の観念に取り残された動物園は廃れてきているが、この価値観は未だに人々の心に根強く残っているように思える。

2.人と動物のための動物園

そうした時代を経て次第に「動物の福祉」が強く叫ばれるようになる。
『動物園の動物は可哀想』という固定観念からの脱却である。エンリッチメントという言葉が一般的になり、動物たちの芸もハズバンダリートレーニング(健康管理)を目的としたものへと変化していく。
檻とコンクリートの展示は少なくなり、景観に工夫を凝らした展示が増えていった。

余談だが、檻に囲われている動物たちが必ずしも可哀想だとは限らない。むしろそう思うのは『檻』に対するネガティブなイメージから来る人間の主観に過ぎない場合もある。
例えばサルなど上下運動や樹上生活を行う動物たちに屋外で満足のいく環境を用意することが難しい場合でも、檻の中ならば比較的容易にかつ安全に実装出来るからだ。
コンクリートも同様である。放飼場が壊れないように、あるいは物を投げて来園者を怪我させないように、動物園の飼育環境は動物たちと来園者の安全のために妥協点を常に模索している。
そしてそういった事情は動物園側がしっかりと来園者に説明・あるいは動物たちの姿で証明しなくてはならないと私は思っている。
そうしなければ動物たちはいつまでも「かわいそう」だからだ。動物園が来園者に伝えたいことはそんなことでは無いはずだ。

閑話休題、施設側は動物たちのための環境を整える一方で、来園者の期待に応えるためのエンターテインメント性も磨き続けた。その結果多くのハイブリッドな動物園が生まれた。それこそが「人と動物のための動物園」であり、日本の動物園の現状である
来園者の中には動物園に対する意識の変化が訪れつつも、世間にとっては見世物としての評価を払拭しきれていないためにそちらにも配慮しなくては経済的に存続出来ないという歯がゆい状況下にある。

3.動物のための動物園

今の動物園の姿をある程度定義したところで、次はこれからの動物園を考える。それがこの「動物のための動物園」だ。
ここで言う『動物』とは「人と動物のための動物園」で述べた『動物』とはやや意味合いが異なる。後者は主に飼育動物を指すが、前者の主体は野生動物だ。
『動物園を通じて動物及び環境保護活動への啓蒙を行なう』こうした明確な目的と社会的役割を持つものが、今後全てでは無いにせよ日本の公的動物園が目指す形となるだろう。
もちろん現状でもその目的を掲げている施設は多くある。しかしながら最大の問題は人々の間で動物園がそのような存在ではない事だ。
恐らくこれこそがいわゆる「欧米の動物園」と「日本の動物園」の違いであり、日本が動物園後進国と言われる所以である。

海外の動物園の入園料は日本より高く、運営費の大半は寄付で賄っていると聞く。つまりそれは『動物園とは動物を守るための活動をする場所(団体)である』という考えが世間に根付いていることの証左だ。
入園料で元を取ろうなんて思わない。寄付に高いも安いも無い。
そういった意識が日本には根付いていない。
「欧米」と「日本」の決定的な違いとは施設側よりもむしろ『世間の認識』にこそあるのである。
飼育員は飼育動物のために従事する。動物園は動物たちを守るために活動する。ではその中で来園者の立場とは、役割とはなにか?
「来園者は『お客様』であり、動物は『演者』である」というこの潜在意識を抜本的に変えていかないことには、日本はいつまで経っても動物園後進国のままなのだ。

■ 動物園のガラパゴス化

一方、全ての動物園が欧米に右ならえすれば良いのかというと私はそうは思わない。
何故ならば動物園には動物園の数だけ役割と理想があるからだ。
特に日本は狭い国である。日本において人と動物とは縄張りを争う間柄であり、多くの野生動物は害獣として疎まれている。
そんな中で、人と動物が歪とはいえ共生することができる動物園という場所はかけがえのない大切なものだ。だからこそ飼育動物を種よりも個として尊重する今の形があるのだろうと思う。
そういった価値観は簡単に否定されるものでは無い。私はそうした多様性に満ち溢れた「人と共にある動物園」がとても好きだ。

ただどうしても時代の流れというものはある。恐らく多くの公的動物園は今後「動物のための動物園」を目指すことになるだろう。そうしなければ世界から取り残されてしまうからだ。海外の動物たちを展示するためには海外のスタンダードに合わせる必要がある。そもそも動物とはもはや消費できる資源では無いのだ。
そんな中で「集客のためにあなたの国の有名動物を迎え入れたい」「死んでしまったから新しい個体が欲しい」と海外に訴えることがいかに的外れな言動かは言うまでもないだろう。良い悪いの話ではない。ただどうしようもなく時代遅れなのだ。

動物園は人と共にある。これから先、人と動物園はどのように変わっていくのか。私は一抹の寂しさと大きな期待を持って共に歩んでいきたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?