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レッチリを教えてくれたハマサキ君の話

レッチリ新譜を買う

「レッチリにジョン・フルシアンテが復帰」というニュースはネットニュースで読んだ覚えがあったが、新作が発売されていることをつい最近まで知らなかったので、仕事帰りにタワレコで確保。それを聴きながら、ちまちまとこの文章を書いている。

レッチリのアルバムを買うのは、結構久しぶりである。
自分はどうしてもギタリスト目線に偏りなもんで、いくらお気に入りのバンドでも、自分が心に決めたギタリストが離脱してしまったとたんに、フォローするのを止めてしまうことが多い。例を挙げるならば、リッチー・サンボラのいないBON JOVIとか、クリストファー・アモットが離脱して、兄弟のツインギター編成でなくなってしまったArch Enemyとかがそれだ。

そんな傾向があるもので、ジョンが抜けてしまったレッチリにはあまり食指が伸びなかったこともあり、その後に出たアルバムはなんとなくスルーしてしまい、今でもチェックしていない。

ということで、そこまで熱心なレッチリファンではないものの、ジョンが久々に復帰した新作"UNLIMITED LOVE"は曲数の割にはバラエティに乏しいのがタマにキズのような気もするが、自分が必死にレッチリを聴いていた中学~高校生時の記憶が蘇るくらい、懐かしい気持ちにさせてくれる良いアルバムだと思った。

そこで、これを良い機会としてロックとギターに興味を持ちはじめた中学校時代のことと、レッチリやらなんやらを色々と教えてくれた同級生、ハマサキ君のおぼろげな記憶を書き残そうと思う。

20世紀末のロック中学生

1998年、当時福岡に住んでいた真田少年は中学校に入学。出席番号(あいうえお順)が近かったハマサキ君と仲良くなった。この年のロック(洋楽)界隈はどんな感じだったかを思い出すと、エアロスミスの「ミス・ア・シング」がヒットしていた時期だったハズだ。ちょうどティーンエイジャーに差しかかかっていたころの自分にとっては、そういう時期に巷に流れている音楽が、少なからず影響を与えやすいものであったかどうかは定かではないものの、なんとなくではあるが洋楽ロックのカッコよさというものに少しずつ目覚めていき、ひょんなことから入手した、エアロスミスの"Nine Lives(1997)"の録音テープをきっかけに、どんどんそっち方向にのめりこんでいく。

ハマサキ君に話を戻そう。彼はとても頭が良く、成績はいつもトップ。でもどこか斜に構えているというか、屈折している感じが真田少年とウマが合ったのか、良く行動を共にしていた。でもちょっとおマセさんなところがあるのが鼻につくキャラでもあり、例えば授業の一環で書かされた自己紹介カードの「好きな音楽」欄に「ジャズ」とか書いちゃっていたり、冬、雪が積もった日の休み時間に皆喜び勇んでグラウンドに飛び出していくのを横目に、鼻で笑いながら教室に一人籠っているような、そういうどこか同じ中学男子としてイケ好かない側面も持っていたが、そういう弄りポイントがあるのが逆に嫌いではなく、逆に同年代らしくない知識を彼が持っていたことから得た影響も、今思えば少なからずあったのかなと思う。

余談だが、何故だか二人で『フォレスト・ガンプ』にドはまりしていた時期があり、ガンプとバッバのモノマネ(エビ漁船云々の下り)をやったり、続編の小説(そんなものがあった)を彼から借りて読んだりした。たぶん、クラスの中では結構浮いていたのではないかと思う。

で、何がキッカケでそういう話になったのか記憶が曖昧なのだが
中学2年の時、体育の授業か、運動会の練習か何かでグラウンドで雑談する機会があり、二人の音楽性の一致を見るような会話になったことは覚えている。そしてやはりここでも彼は何歩も先を行っており、エリック・クラプトンが本質的にはブルースギタリストであり、クリームやデレク・アンド・ザ・ドミノスというロックバンドを組んでいたこと、そこからさらに遡ってロバート・ジョンソンという悪魔に魂を売った伝説のブルース・ギタリストがいたということなどなど、色んなことを教わった。恥ずかしながら当時の真田ゼウス少年は、エリック・クラプトンのことをただのシンガーソングライターくらいにしか思っていなかった(「チェンジ・ザ・ワールド」くらいしか曲を知らなかった)し、13,4歳そこそこのハナたれ小僧にブルースの何ぞやが到底理解できるはずもなく、ただ「そういうものがあるのか」と聞き溜めていた。実際にクラプトンやギターなどに興味を持ち、色々と深堀りを始めるのはもう少し先の話になるのだが、この辺の話はまた機会があれば別の記事にしようと思う。

話はレッチリである。そんなこんなでハマサキ君から「メッチャかっこいいよ」と貰ったのが、当時発売されたばかりのアルバム『Californication』が録されたMDだった。これが自分にとっての初レッチリ体験となる。

「・・・なんだこれ?」

確か、自宅に帰って即、居間のオーディオデッキにそのMDを突っ込んで聴いたと思う。1曲目の"Around The World"のイントロが流れた瞬間「これは今自分が聴いてるロックとは明らかに異質なもの」というのが第一印象だ。

歪んでいなくてペケペケいうギター、ブリブリしていてやたらと主張の激しいベース、そして何より、ラップ?のようなものを乗せつつ、ヴァースでは決して上手いとは言えないが、クセがあってやたら印象に残るボーカル。

全体的にカラッとした音像なのに、どこか荒涼として憂いを感じる楽曲。彼らのビジュアルを初めて見たのはそこから少し後、多分ケーブルTVのMTVだかSpace Shower TVだかで頻繁に流れていたMVだったと思うが、全員上半身裸、なんか動きも変。余計に混乱したのを覚えている。

この時の真田ゼウス少年の中では、ロックという分野の裾野がまだまだ広がっていく最初のころであり、80年代以降のAEROSMITHやMR.BIG、BON JOVIといった、どちらかというとキラキラした王道のハードロックしか聴いていなかった。当然、レッチリのような所謂ミクスチャー、オルタナティブロックにカテゴライズされるようなジャンルはおろか、ファンクという音楽すら知らなかった。そこでいきなり「亜種」のようなものを食らった形になったのであるが、若干の混乱と合わさって、言語化できないクールさを感じたのも事実で、その後しばらく繰り返しそのMDを聴くだけでは足らなくなり、それからハマサキ君のレコメンドを受けたレッチリの過去のアルバムを沢山聴いたりしていくうちに、彼との音楽的交流も深まっていったのである。

その後

それぞれ別の高校へ進学するのと同時に、ハマサキ君とはやや疎遠になってしまったが、それでも変わらずレッチリは聴いていて、2022年に出た"By The Way"はリアルタイムでゲットしたし、その時の来日公演(マリンメッセ福岡だったと思う)も一人で観に行き感動した。フリーがオレンジのニット帽とおむつ姿でベースを弾いていたのを割とはっきり覚えている。

ハマサキ君はというと、念願のGibsonレスポールを入手して、高校でバンドを組んでいた。学園祭でライブをするというので観に行ったら、レニー・クラヴィッツやレッチリの曲を演奏していて、とてもうらやましく思った。

そうやってお互いそれぞれの音楽道を究めていったのだが、自分はというとこの頃から段々と激しい音楽性に傾倒していった。いつだったか、久しぶりにハマサキ君を自宅に招いたときに、その時熱中していたアイアン・メイデンを彼に聴かせたら「僕はこういうのはいいや」と言われてちょっとムカッと来たことがあった。こういうスカしたところは相変わらずだと思った。

他にも色々あったかもしれないが、ハマサキ君との音楽交流の記憶は、このあたりで途絶えている。もともと彼は法曹界を志しており、入った高校も学区内で偏差値トップのところで、学業にも相当力を入れていた。そこからは本当に疎遠になってしまって、大学生の時に一回電話が急にかかってきて、少しだけ喋ったような記憶がある。確か、〇橋大学の法学部に入学したのではなかったか。それからきっと、志望通り法律関係の仕事に就いたはずだ。

ハマサキ君は今どうしているだろう、元気にやっているだろうか。
音楽は今も聴いているだろうか、ギターはまだ弾いてるだろうか。
ジョンが帰ってきたレッチリの新作は、もうチェックしただろうか。もし偶然会うようなことがあったら、真っ先にその感想を聞いてみたい。

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