イシナガキクエを探さないで下さい

2024年4月30日よりテレビ東京で放送の始まった『イシナガキクエを探しています』は、チャレンジングな企画でありつつ、その実、視聴者の潜在的な需要に応えた、不思議な番組だ。
この記事ではこの番組を手掛かりに、昨今のJホラーブームを紐解いてみたいと思う。なお"番組内容の考察"ではなく、"近視眼的な経緯考証"が中心であることをお断りする。


What is TXQ FICTION?

『イシナガキクエを探しています』概要

『イシナガキクエを探しています』とは、テレビ東京で三夜に渡って放送されているモキュメンタリー形式のテレビ番組だ。テレビ東京では今後、TXQ FICTIONという枠でモキュメンタリーのシリーズを展開予定のようで、『イシナガキクエを〜』はその枠の記念すべき第一作となる。
企画・演出はテレビ東京でモキュメンタリー番組を制作してきた大森時生氏、また同ポジションでYoutube番組『フェイクドキュメンタリーQ』を制作している皆口大地氏、寺内康太郎氏、近藤亮太氏がクレジットされている。
この番組の構成は「イシナガキクエという70代の女性についての情報を番組上で募り、取材・捜索を行う」というもので、フォーマットとして今となっては懐かしさすら感じる公開捜索番組を踏襲している。
番組上では、とある老人の意思に基づきイシナガキクエの捜索番組を制作している、と前提の説明がなされている。しかし制作スタッフがその老人の意思に従う理由などは一切明らかにされない。
また現時点では第二夜まで放送されているが、第一夜放送後に集まったとされる情報・取材なども紹介され、番組ではある程度のリアルタイム性が強調されながらイシナガキクエの捜索が進んでいく。
モキュメンタリー作品を何作か見たことがある人ならば、この時点で漠然とした”厭な作意”を感じることだろう。
またTXQ FICTIONシリーズの企画自体が大森氏と皆口氏の対談が端緒となっており、演出手法などの多くの部分が『フェイクドキュメンタリーQ』と一致している。

これまでのTHQ FICTIONシリーズ

『イシナガキクエを探しています』がTXQ FICTIONシリーズの第一作と前述したが、この枠には前身番組と呼べるような過去の関連番組(大森時生氏ディレクション)が存在している。
それが以下の番組だ。
・『Aマッソのがんばれ奥様ッソ!』
・『テレビ放送開始69年 このテープもってないですか?』
・『SIX HACK』
・『祓除 事前番組/事後番組』※テレビ東京60周年記念式典との連動番組
上記の番組いずれもが強い独自性を持った番組でありつつ、その一方で各々がTXQ FICTION立ち上げに向けたステップとなっているかのような印象を与える。

「実際の出来事」という枠組み

前述の通り、『イシナガキクエを探しています』という番組は「実際の行方不明者を探す」というテイのモキュメンタリー番組だ。過去番組の中でこのモキュメントの枠組みを最も強く押し出しているのは、『Aマッソのがんばれ奥様ッソ!』である。
『Aマッソの〜』はバラエティーでお馴染みの密着ドキュメントに伏線の概念を持ち込み、番組上では明言されない厭な真実を視聴者に語る番組だ。
この手法は長江秀和氏による『放送禁止』シリーズによって確立されたものである。視聴者は映像の端々に映り込んだ仕掛けを追い、取材対象の言動を読み解くことが要求される。これにより、従来的には受動的だった番組視聴が能動的なものとなり、モキュメントならではの「視聴者が気づいてしまう恐怖」が演出される。
この「気づいてしまう恐怖」は『イシナガキクエを〜』でも重要視されており、番組が一方的に怖がらせるのではなく、視聴者が期待感を持って自ら怖がりにいく姿勢を生み出している。

半公共メディアとしてのテレビ

テレビは公共性を帯びている、と書くと多くの反論を呼びそうだが、ここで言う公共性とは「否応なく同じ時間に同じ番組を一律に届ける」ぐらいに理解して頂きたい。この意味で『イシナガキクエを探しています』はその公共性を存分に活かしている。なぜなら呪いとも穢れともつかない悪意のようなものがテレビをザッピングしてるうちに自室に飛び込んでくる、という無作為の恐怖を生み出しているからだ。この事故的に悪意と出会ってしまうスリルはテレビならではものと言える。
この公共性は『テレビ放送開始69年 このテープもってないですか?』から意識されていると思われる。
『このテープ〜』は視聴者から募った過去のテレビ番組のVHS映像を紹介する、というバラエティのテイを取ったホラー番組だ。三夜に渡って映像を視聴する中で、映像にはとても過去のテレビ番組とは思えない不審な内容が混じり、MCの言動は加速度的に狂気を帯びていく。そして最終的にはおぼろげながらも、世界への恨みのようなものが番組を通じて世に放たれた、といった旨の結論が示される。これは無作為に自室に届けられる悪意の一例と言えるだろう。
『イシナガキクエを〜』は現時点では未完結だが、しかしこれまでの方向性から、最終的には我々の自室に強烈な悪意が届けられるのはまず間違い無いだろう。

リアルタイムメディアとしてのテレビ

『イシナガキクエを探しています』はリアルタイム性という点で、過去作と少し趣を異にしている。公開捜索番組として視聴者から情報を募り、その情報に基づき番組が構成されているテイを取っており、三夜の間に状況が更新されるというリアルタイム性が演出されている。このリアルタイム性も、視聴者を能動的に番組へ引き込む要素となっている。
『テレビ放送開始69年 このテープもってないですか?』では、三夜をかけて段々とMC陣の言動が狂っていく。これは視聴者と共に映像を見進めることにより狂ってしまったことを意味し、視聴者にも同等のリスクや影響があると突き付けている。MC陣と時間を共有するというリアルタイム性によって恐怖を生み出しているのである。さらに『SIX HACK』ではこのリアルタイム性が先鋭化している。番組は当初、全六回放映と銘打たれていたが、何らかの事情で三回目の放送時点で放映は取りやめとなり、四回目は配信とし、残りの五、六回目はお蔵入り、という演出がなされた。この週次の放送スパンを逆手に取ったリアルタイム性は、放送してはならないものが放送されてしまった、という恐怖を生み出している。
これらのリアルタイム性は、視聴者の感覚を単なる番組視聴から番組体験へと深め、まるで自分が恐怖体験に遭遇してしまったかのような感覚を与えている。
なお『祓除』ではリアルタイム性への特化が主眼に置かれており、実際のイベントを事前・事後の二つの番組で挟み込むことにより、イベントの真意(除霊の失敗、穢れの拡散)を事後に種明かしするという、実体験を伴ったリアルタイム性が演出されている。

双方向メディアとしてのテレビ

前述の通り『イシナガキクエを探しています』では、視聴者から提供されたテイの情報が番組で紹介される。このテレビの双方向性、言い換えれば参加可能性が視聴者が能動的に番組から恐怖を見出す、重要な要素となっている。
『イシナガキクエを〜』では番組中に情報提供用の電話番号が明示される。SNSで飛び交う情報によると、この番号にかけると後に実際のテレビスタッフより折り返しがあり、イシナガキクエの情報提供を求められるそうだ。(※リカちゃん電話ですら怖い私は当然電話はかけていない)第一回の放送後、この電話は二千件程度に及んだとの情報もあり、第二回目で紹介される視聴者情報はこれらの電話の中からピックアップされたもの、というテイだ。つまり「私の電話が番組に反映されるかもしれない」という、かなり具体的な双方向性が演出されている。これにより番組と一緒になって視聴者もイシナガキクエを探す、というある種の劇場型ホラーとも呼べる構図を獲得している。
この参加構造は『テレビ放送開始69年 このテープもってないですか?』の頃から意識されており、例えばこの番組ではテープは視聴者から集められたもの(のテイ)だった。そしてこの構造の一つの究極として、実際のイベントを一部に取り込んだ『祓除』がある。この企画ではイベント参加者の眼前で除霊が繰り広げられるるが、事後番組によってその除霊は意味を成しておらず、イベント参加者はすべからく呪われてしまった、という笑うに笑えないオチがつく。
このテレビの双方向性、参加可能性は前述のリアルタイム性と共に、視聴者を番組視聴体験を深める。双方向性の導入により、恐怖のレイヤーはもはや後出しで怖くなるお化け屋敷のような状況で、参加型・双方向性が持つ力は一つの極に達しているのかもしれない。

因果が欠落した令和ホラーとの呼応

ここまででTXQ FICTIONというシリーズを少し紐解いてみたが、ここから先は昨今のホラートレンドとの関連性、ならびに先行作品との影響関係を紐解いてみたいと思う。

兄弟番組としての『フェイクドキュメンタリーQ』

前述の通り『イシナガキクエを探しています』は、Youtube番組『フェイクドキュメンタリーQ』のコアスタッフが中心となって制作しており、二つの番組は兄弟番組として捉えることができる。そしてこの兄弟関係はTXQ FICTIONシリーズ全体として今後も続くことが想定される。
『フェイクドキュメンタリーQ』は静謐ながらも視聴者の恐怖を確実に喚起させる、ハイコンセプトかつハイクオリティな映像を提供している番組だ。演出の寺内康太郎氏は『ほんとにあった! 呪いのビデオ』シリーズの演出を務めたこともあり、映像の内容もかなりハイブロウな心霊ホラー・オリジナルビデオ、といった趣だ。しかしこの番組に”ハイ”な形容詞を付けたくなる理由は、単に映像の内容が怖いからではない。どちらかといえば、映像に映っている事象そのものには直接的な恐怖は薄く、ほぼ意味不明な不穏さに満ちた映像が多い。しかしその出所不明な不穏さこそが令和の世を捉え、この番組を誰しもが語りたくなる理由となっている。

因果欠落型ホラーとは?

現行のJホラー作品には「因果が欠落しているが故に恐ろしい」という一つの傾向がある。もちろんこの傾向は『邪眼霊』から始まるJホラー史の積み重ねの上にある訳だが、翻って考えてみると、そもそもJホラーにおける恐怖の先鋭化とはすなわち、”怪談”的なフォーマットから因果を排除していく過程にあったのでは、と思われる。”怪談”的なフォーマットとは「AがBに殺されて、Aの霊がBを殺す」というようなパターンのものだ。つまりここでは、殺人やそれに類するような重罪を犯さなければ他者に恨まれることもない、という道徳的な価値観がベースとなっている。これが例えば『リング』になるとどうだろうか。「呪いのビデオ」の登場により、他人が拾ってきたビデオを見るだけで我々は呪われるようになってしまった。いや『リング』の劇中では直接関わった人間が死ぬだけ、まだマシかもしれない。これが『呪怨』になると引っ越しただけで死ぬとか、引っ越した人間の親族だから死ぬとか、事件の担当刑事だから死ぬとか、直接怪異と関与がない場合でも呪いが波及するようになっている。これがJホラーにおいて因果が消失していく過程である。そして因果の消失はすなわち、死の呪いが無限に拡散されていくことを意味する。『リング』における呪いのビデオによって定義づけられたように、Jホラーにおける死の呪いとは絶えることのない伝染病と同義である。現行のJホラー作品の前提として、呪いは誰しもが等しく感染し、死に至る病として認知されている。
最近のメジャー資本製のホラー映画の中で、因果の欠落と呪いの伝染性にとりわけ作品がある。それが中村義洋氏が監督した『残穢』だ。『残穢』では呪いの伝染性をまた一つ新たな次元に更新している。『残穢』における呪いは噂話そのもののような存在だ。呪いにまつわる話を語っても、聞いても、またはその話の発信源の近辺に住んでいても、皆すべからく呪われ、死を迎えることとなる。ここに至ると、呪いの拡散は一つの臨界点に達したと思われる。つまりこれ以上に先鋭化すると、因果律が完全に喪失し「なんでもいい」の世界に突入してしまう。※『残穢』における実話怪談への追従性と、監督:中村義洋氏については後述する
現行のJホラー作品は「なんでもいい」の一歩手前で踏みとどまりつつ、しかし通りすがりレベルの人間でさえもすべからく呪う心意気で創作されているように感じられる。ご多分に漏れず『フェイクドキュメンタリーQ』やTXQ FICTIONにもこの因果の欠落が見られる。つまり「なぜこれを見せられているか」「一体これが何を意味しているのか」が全く不明な状態で視聴者は映像を見ることとなる。そしてその結果、何もわからないまま理不尽に呪いなどの強烈な悪意に晒されてしまうのである。この構造の効果として、視聴者自身がJホラー作品の登場人物になったかのような感覚を与えることに成功している。

リアルタイム性を保持したホラー

前述の通り、リアルタイム性というのは視聴者をその作品世界に巻き込んでいくにあたって、非常に重要な要素である。作中の出来事は今、ここで起きたものであり、なおかつ自分と同じ時間を共有している、という感覚は視聴者の作品への能動性を高める。特に連続する前提のメディア(テレビ、Youtubeチャンネル、連載など)では回を増すごとに状況が悪化していくことで、コンテンツに触れている視聴者にも悪影響が及ぶかのような感覚を生むこともできる。(『リング』の呪いのビデオ的な感覚)
背筋氏の著作『近畿地方のとある場所について』はカクヨム上で連載的に発表されたホラー小説だが、例えばこの作品では連載が続くにつれ、中心となっている書き手の持つ悪意が段々と明らかになっていく。更新を待ちながら一話ずつ読み進める感覚は、ゆっくりとしかし確実に自分が悪意に晒され、死に至る呪いにをかけられていくようなものに通じる。
『フェイクドキュメンタリーQ』でもこのリアルタイム性が保持されている。コンテンツの内容自体はモキュメンタリーとしてパッケージされているため、今、ここで起こっている出来事性は薄いが、しかしコンテンツの外側で起こる現象によって、強烈にリアルタイム性が担保されている。その現象とは”考察”だ。この番組では徹底的に因果関係や意味性などを排除し、不穏な現象や奇妙な状況を記録した映像を断片的に示していく。視聴者は欠落した因果関係、意味性を自ら埋めようと考察を行い、SNSにそれらを書き込む。その結果、無数の解釈と物語が視聴者によって創作され、コンテンツの持つ意味は視聴者自身によって日々変容していく。リアルタイムで視聴者がコンテンツの変容を体験することが可能なのだ。

考察型ホラー

更に”考察”というキーワードについて少し検討してみたいと思う。この4、5年において”考察”はまさにトレンドワードといって過言では無く、あらゆるエンタメジャンルに食い込んでいる。私は”考察”を、古くからの二次創作文化と謎解きゲーム文化、そしてSNS文化の奇妙な融合と捉えている。好きなコンテンツを頭の中で反芻し、散りばめられた伏線を自力で繋げ、SNSに”考察”として発表する。これは確かに楽しい遊びで、同じコンテンツに親しむ者同士に仲間意識も生まれ易く思える。ご多分に漏れず、ホラーにおいてもこの“考察”は一大トレンドであり、むしろホラーならではの恐怖の増幅効果さえ生んでいる。
最近のメジャー映画の分野では、『N号棟』『変な家』などが積極的に考察を促すことを意識しており、視聴者に「なぜ?なに?どうして?」を考えさせる造りとなっている。つまり、物語や描写にあえて不案内な要素を残しているわけだが、この欠落が”考察”を呼び込み、SNSで考察という名の口コミを増やす秘訣となっている。前述の『近畿地方のある場所について』も同様で、断片的に示されるWEB書き込みや新聞・雑誌の記事を読み手が自ら関連付け、明言されない本当の意味を検討する必要があった(最終的にほぼネタバラシはあるが)。この関連付け、意味を発見する過程はSNSで共有され、拡散され、そして口コミとなって読み手を増やす。『フェイクドキュメンタリーQ』においてもこれは同様だ。断片的に投げ出された映像そのものが、積極的に視聴者による関連付け、意味付けを望んでおり、SNS上では映像が望む通りの”考察”が繰り広げられている。前述の通り、視聴者は伏線を発見し、自ら映像を解釈し、隠されたストーリーを創造する。そして自ら創造したストーリーの中に悪意を見い出し、恐怖する。ここにおいて”考察”は単なる解釈の域を超え、恐怖を生み出す重要な機能を持つようになっている。

モキュメントと拡散と死

ここまでで言及した作品の多くが、実際に起きた出来事のテイを取ったモキュメンタリーの手法を用いた作品である。ほんの10年ほど前までは、モキュメンタリーのホラーといえば『ほんとにあった!呪いのビデオ』に代表される、投稿映像をベースとしたオリジナルビデオ作品に限られていた。(※白石晃士氏の諸作品を取り上げると本記事が終わらなくなるので、一旦例外として除く)それが今では、テレビ東京において専門の枠が組まれるほどのメジャーな手法となりつつある。私はその原因の一端として、モキュメンタリーと拡散の相性の良さ、そしてそれにより増幅される恐怖があると考える。『近畿地方のある場所について』の物語の発端は非常に示唆的だ。WEB上に書き込まれた、我々には理解できない道理に基づいたコメントを発見する様子が、まるで序文のように描かれている。この件を読んだ時、これは今、ここで起こっていることだ、と私の背中に電撃が走った。この作品はカクヨムに投稿されており、まさに私は自室のPC画面でこの作品を読んでいた。この居心地の悪い一致が、今までに感じたことないリアリティを生み出していた。その後、『近畿地方の〜』は特定の場所にまつわる、不可解かつ恐ろしいエピソードを並べていく。そのいずれもが誰にでも心当たりのあるようなシチュエーションを材にとっており、なおかつリアリティを担保するため、口伝や噂話、もしくは雑誌報道の形をとって描写される。読者は一見するとバラバラに見えるエピソードを順番に読みながら、隠された関連性を見つけていき、さながら作中の取材者と同行しているかのような体験をする。そして最終的には、取材者と同様にとある発見をし、その報告を”考察”という形で発信、拡散する。ここでいう発見とは、死に至る悪意である。我々の常識を超えた得体の知れない存在が、自ら発見されたいが故に張り巡らせた悪意だ。我々は”考察”という行為によって、喜んでその悪意の拡散に手を貸している。モキュメンタリーの作品はもちろん創作だ。しかしその一方で、作品の核としてリアリティを獲得するための工夫が重ねられている。鑑賞後の「いやーよく出来てたけど、そんなことはあり得ないし・・・まさか、ね」といったような、なんとも拭い難い不安感が我々の認知を微妙に歪め、作品は現実と虚構の狭間で特殊な空間に収まる。この空間はどちらかと言えば、噂話や都市伝説、もしくは心霊スポットの怪談話なんかを納めておく場所に近い。理性は否定するが、本能的には恐怖を感じてしまう話。我々はそんな存在を”考察”というタグをつけて拡散する。それは都市伝説にアレンジを加えて友達に披露するような感覚に近い。作品は拡散されるにつれ、各々の受け手が物語やそこに内在する恐怖を自分に最もフィットする形に落とし込み、作品は不定形に姿を変えながら広まっていく。これは額縁に収まった物語では発生しづらい現象である。あくまでも噂話のような敷居の低さでモキュメンタリー作品は拡散されていく。なお前述したモキュメンタリー作品の多くは、拡散を一つのテーマとして持っている。知り合いの知り合いが見聞きした話として、悪意が遠くの方から運ばれてきて、そして私やあなたを経由して、また遠くの方へ運ばれていく。そしてこの拡散構造を凶悪な形で活用しているのが、聞いただけで死に至る悪意の存在だ。前述した通り、『リング』が呪いを伝染病と定義して以来、その基本は変わらぬまま、伝染経路を変えて様々な呪いが世界を席巻している。そしていま最も主流の伝染経路は、SNSという現代性と噂話という古めかしい構造の融合体というわけだ。

実話怪談と『残穢』

この噂話の構造を昨今のメジャーホラー作品で取り上げたのが中村義洋監督『残穢』であり、この作品以降、拡散構造や”考察”に自覚的なホラー作品が増えた印象がある。『残穢』は実話怪談を物語の基礎においた作品で、女子大生が体験した心霊現象を端緒に、芋づる式に心霊話・怪談話が列挙されていき、最終的には一つの強烈な恨みと悪意が浮き彫りになる。この作品が独特なのは、主人公となる小説家が直接的には心霊現象に遭わない点だ。あくまでも主人公は実話怪談の聞き手かつ、拡散者の立場から揺るがない。しかし物語の最後に主人公が記した怪談が拡散されると、拡散に手を貸したもの、もしくは悪意の近くに晒されたものはいずれ死んでしまうことが示唆される。これは悪意の無差別的な拡散と、その結果による人類滅亡を遠くに見据えたものと言える。この基本構造は原作『リング』の頃から形作られ、ビデオ版『呪怨2』や黒沢清監督の諸作品では明確にビジュアル化もされており、いわばJホラーの基本マナーのようなものだ。そしてこの基本構造には実話怪談がイメージの下敷きにあり、そのため実話怪談を材に取った『残穢』において、この構造が恐怖を生み出す仕組みそのものとして活かされている。(実際『残穢』では怖がらせることを目的とした映像演出は少ない)実話怪談の「実際にあった話」という前提と、「話を聞き、それを広める」という基本形は、現在流行しているJホラー作品の手法そのままと言える。なお、実話怪談の元祖である『怪談新耳袋』に登場する「件(くだん)」にまつわる複数の怪談は、初期の段階からして既に、一見無関係な怪談が繋がって一つの恐怖が浮かび上がらせる構造を持っている。(さらに言えば『怪談新耳袋』で最も不可解な「山の牧場」のエピソードは、実話怪談の調査ならびに調査者への悪影響の構造を既に持っている)『フェイクドキュメンタリーQ』や『イシナガキクエを探しています』はまだ完結しておらず、悪意の無差別な拡散構造が取り込まれているかは不明である。しかし過去の諸作品の経緯を考えると、作品を一生懸命に追う視聴者こそ、取り返しのつかない悪意に晒されることはほぼ確実だと思われる。

オリジナルビデオホラーの断末魔

『ほんとにあった!呪いのビデオ』の静かな勝利

昨今のモキュメンタリーホラーの端緒となった『残穢』の中村義洋氏、また『フェイクドキュメンターQ』『イシナガキクエを探しています』の寺内康太郎氏にはある共通点がある。それは二人ともが『ほんとにあった!呪いのビデオ』(以下『ほん呪』)のディレクターを務めていたことだ。『ほん呪』は投稿された心霊映像を紹介し、その映像や心霊現象の経緯を取材するオリジナルビデオ作品だ。時には我々視聴者にも悪影響が及ぶ可能性のある映像も警告付きで紹介される。レンタルビデオ店に入ったことがある人なら、邦画の棚の端で真っ黒なパッケージが何十本も並んでいるのを見たことがあると思う。前述した、事実とされる映像の紹介や取材のパート、そして映像によって視聴者に悪意が押し寄せる、という『ほん呪』の基本構造は、今まで紹介してきた現在主流なJホラーコンテンツの基本形とパーツが同じである。『残穢』は『ほん呪』における取材パートをフィクション化し、取材者に対する影響を最大化したものと捉えられる。また『フェイクドキュメンタリーQ』は大まかに、『ほん呪』における投稿映像を彷彿とさせる回と、取材パートを切り出したかのような回に分類できる。なお、これまで『ほん呪』がメディアで取り上げられる場合には、投稿映像のインパクトが重視されることが多かったが、昨今のおいては取材パートを独自にアレンジしたような作品が増えている状況だ。これは取材パートが噂話の真偽を確かめるような、実話怪談を辿っていくような、ミステリーを解いていくような、複合的かつユニークな感覚を持っているからだと考えられる。過去、テレビの映像素材として『ほん呪』の映像が使われることはあったが、取材パートがフィーチャーされているのはここ最近のことだ。(長江俊和氏が携わった『奇跡体験!アンビリバボー』のコーナーは除く)
このように考えると、いつの間にか『ほん呪』のDNAは成長、拡散し、テレビ東京にTXQ FICTIONという枠を作るまでになっていたこととなる。今でも心霊映像を扱ったオリジナルビデオ作品は、ホラーにおける傍流の存在とみなされ、一笑に付されることが多い。しかし、『ほん呪』を見たことがなくても、『フェイクドキュメンタリーQ』や『イシナガキクエを探しています』、もしくは前述のその他モキュメンタリー作品を見たことがある方は多いと思われる。この状況を鑑みると、『ほん呪』が存在しなければ現在のホラー勃興は発生しなかったと言っても、あながち過言ではないと思われる。それは『ほん呪』をはじめとする一部のオリジナルビデオ作品が、意図してかは不明ながらも、Jホラーの持つ恐怖構造の本質を掴んでしまっていたことの証左である。

オリジナルビデオホラー最後の咆哮

90年代中頃から本格化したJホラーブームは、99年に『ほん呪』というモキュメンタリー作品を生み出し、ホラー・オリジナルビデオという日本独自の市場を作り出した。またそれと並行して『奇跡体験!アンビリバボー』に代表されるような、真偽不明な恐怖体験・心霊写真を扱う番組が90年代後半からゼロ年代中期のテレビ文化を席巻した。昨今のモキュメンタリーホラーブームは、上記の世代のクリエイターたちが先鞭をつけ、そして幼少期からモキュメンタリーホラーに親しんできた世代が作り手に回ったことにより、まさに今、盛り上がりを見せている。しかしホラー・オリジナルビデオの文化は、残念なことに近々滅んでしまうことが運命付けられている。オリジナルビデオの主戦場だったレンタルビデオ市場が配信の台等により縮小し、ビデオレンタルという文化自体が滅びようとしている今、この運命は避け難い。一部の作品は配信サービスなどに活路を見出すと思われるが、しかしオリジナルビデオのビジネスモデルが大きく変貌することは間違いなく、追従に失敗した作品、制作会社は滅んでしまう。つまり昨今のモキュメンタリーホラーの流行は、ホラー・オリジナルビデオ文化の変則的な継承であるとと同時に、現存する文化形式の消滅を意味する。その観点でTXQ FICTIONは、滅びゆくオリジナルビデオを最も縁遠かったと思われたテレビの世界へと連れていく、ノアの方舟のような存在だ。今後モキュメンタリーホラーの番組が増えることにより、オリジナルビデオのクリエイターたちが少しずつテレビの世界へ引き上げられていくかもしれない。しかし、レンタルビデオ店の片隅で埃をかぶっていたオリジナルビデオたちがテレビの世界へ流入していくことは、レンタル棚で獲物を待ち構えていた怪異たちがテレビの電波に乗って我々の自室へ忍び込んでくることを意味する。それはきっと、ジットリと粘つくようで、それでいてタチが悪い割にはオールドスクールな怪異だろう。そして毎日のように、怪異が人間社会を滅ぼしていく予感が我々の頭にまとわりつく。これは我々が潜在的に望んでいることのように思われる。経済も政治もドン詰まりを見せつつあり、なおかつ戦争が現実にその足音を響かせる現在、腐った世界をマルっとオジャンにしてくれるエンターテイメントな存在は、モキュメンタリーから飛び出してくる怪異だけなのかもしれない。

補足:高橋洋の『映画の魔』

最後まで書いてきて気付いたけど、ここまで書いてきたことはぜーんぶ高橋洋氏の著作『映画の魔』の変奏でしかないのかもしれない。そういう意味では、過去から今に至るまでのJホラー原理の全てはこの本に書かれている。なぜモキュメンタリーホラーは観客を死に至らしめる呪いをかけたがるのか、なぜ怪異は我々の理解の外にあり、我々にはその断片しか認知できないのか。その答えは全部この本に載っている。なので皆さん『映画の魔』を読んでください。私は大学時代にこの本を引用したら、それだけで教授にむっちゃ褒められました。なんでやねん。そういった意味ではほぼ奇書。かもしれない。


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