零式暫界・第1話プロローグ

プロローグ:2018年1月

・円谷学園。高等部。2年6組。教室。
机の上に置かれた1枚ーーー進路相談シート。
高2の1月。高校卒業後の進路を決めるには遅すぎず早すぎず。
否、そろそろ具体的な希望を決めておくべき季節。
「とは言えな……」
甲斐廉はその1枚を机に置いたまま思考を巡らせていた。未だに大学進学か就職かで思い悩んでいる。
クラスメイトや担任などは成績からある程度望んだ大学なら問題なく合格できるだろうとされている。しかし、コレ以上学費を募らせていいものか、悩みはつきない。
「よう、まだ出してないのか」
「斎藤」
声をかけてきたのは長年の付き合いがある男子ーーー斎藤新。
「お前はどうするんだ?」
「俺は就職。バイト先でそのまま正社員として雇ってくれるんだ」
「へえ、いいじゃんか。コンビニだっけ?」
「そう。あまりいいイメージないと思うけど悪くないとこだぜ」
「住み込み?」
「いや近くのアパート借りる」
「そか」
「甲斐はどうするんだ?道場続けないのか?」
「……迷ってる」
「甲斐の実力なら道場経営だけでなく普通にファイトマネーガンガン稼げると思うんだけどな」
「……別にそこまで俺は強くないよ」
道場ーーー空手道場。駅前の小さな道場。けど会社としては普通に大きい。メインはやはり駅前の大きな病院。空手道場は院長だか経営者だかの趣味だ。それでも自分は小学生時代に出会って以来その世界にのめり込んでいた。既に10年近く身を置いている。当然怪我をすることもあった。けど、畳の上では全てをぶつけられる。どうしようもなく熱くなれる。
けど、それを将来の夢という現実の形にしていいものか。
「好きなものを仕事にするって何だか不真面目な気がして」
「好きじゃなきゃ長く続けられないって。実力も情熱も結果もあってそこに手を伸ばさないのは少し贅沢だぜ?」
「……かもな」
「まあ、将来の夢なんて歳とればとるほど面倒な足かせになるんだ。今の内に苦悩すればいいさ」
「お前はおっさんか何かか?」
「さてね。けどそれ提出期限今度の月曜までだろ?沈んだ気持ちで修学旅行参加したくなかったら早く出した方がいいぜ」
「俺にとってはそれより前に大事なイベントがある」
「ああ、明日明後日だっけ?全国大会」
「そうだ」
「……その後半戦。14日はお前の誕生日だったな。自分の誕生日に全国制覇するとはいい趣味してるぜ」
「まだ出来ると決まった訳じゃない。……もちろん全力で目指してるけどな」
甲斐が席を立つ。
「白紙で出すのか?」
「いや、そろそろ稽古の時間だ。急がないと」
「今更だけど部活の方はいいのか?」
「確かこの学校にも空手部があったな。けど中等部の一人しかいないんだろ?お前が出てやったらどうだ?」
「前に行ったことあるぜ。そこそこ強かったぞその中学生」
「……そうか。いつか気が向いたら行ってみるか」

寮。学園の生徒1200名と100人ほどの教師達が暮らす生活の場。基本的に門限という門限は設定されていないが夕方7時から食堂が解放されるためそれまでに帰ってくる生徒が大半だ。教師は知らない。
「……遅くなったな」
8時過ぎ。甲斐が寮に戻ってきた時にはもうほとんど食べ物は残っていなかった。それでも今日は遅くなると伝えてあったため一人分は残っている。
「よう、今帰りか」
「牧島先生」
閉め切られたカーテン、片づけの音、忙しい食堂のスタッフ達。それらを背景に一人で北京ダックを食べていたのは中学時代3年間担任だった牧島だ。当然空手のことも知っている。
「はい。ちょっと遅くなって」
「週末だからな。けどお前明日から大会だろ?早めに休んだ方がいいんじゃないのか?」
「ええ、まあ」
「……まあいいや、俺もお前には期待してるから明日は車で送っていってやるよ」
「本当ですか!?ありがとうございます!」
「……少しは謙遜とかさぁ……」
「いや、もらえるものはもらっておこうかと」
「……そういう正直で賢いところ、嫌いじゃないぜ」

自室。全寮制なので6年間同じ部屋を基本的に使うことになる。
当然、同じ建物でも男女でフロアが別れているのだが唯一の例外がそこにはあった。
「……」
自分の部屋だがノックをしてから入る。
「……どうぞ」
「入るぞ」
胴着姿で入室する。部屋の中央をセパレートで分けその左右で全く異なる内装。一見すれば異様に見えるかもしれないがしかし唯一の男女共同の部屋だと理解すれば納得するだろう。
「……」
左側を使用して寝間着姿でベッドに寝転がってスマホを操作する女子。それは即ち甲斐の同居人である穂南蒼穹その人である。
こちらのことなど全く気にしていないという雰囲気で出迎えられ、安堵の息を吐いてから甲斐は右側へと進む。
当然高校生の男女が同じ部屋で暮らすなど例外も例外だ。だがこの生活は既に4年間続いている。2年の時に蒼穹が転校してきたのだが部屋が余っていない。そこでエレベーターホール側且つ一人部屋だった甲斐の部屋をあてがわれることになった。それでも即決というわけではなく教師側で何度も議論が重ねられたが女子生徒はもちろん女性教諭の部屋も余っていないこと、そして女子だけにとどまらず男子に対しても相談がされて、蒼穹の転校当日放課後に行われた緊急の生徒会会議での投票の末、甲斐の部屋に転校生の女子が住むことが決定したのだった。
もちろん何もないように蒼穹側は週に一度健康診断が行われているらしい。当然現状何も問題は起こしていない。
互いにこの生活にも慣れてきている。好感度まであるかは別だが少なくとも信頼度はそこそこあるのではないかと甲斐は勝手に思っている。
「穂南。明日明後日は……」
「何回も聞いた。大会でしょ。日中はいないんでしょ?頑張ってくれば?」
「あ、ああ。ありがとう」
こちらを向く気配もない。
「それよりさっさとシャワー浴びてきたら?汗くさくしないでって何回も言ってるでしょ?」
「悪い。着替えたらすぐ行くよ」
着替えて、シャワーの用意をしてそして思った。
(こりゃ同棲とかじゃなくて父娘だな)

翌日。1月13日。土曜日。牧島の車で3時間かけて向かった大会会場。
「まあ、がんばってこい。そんでさっさと進路決めちまえ」
「気が向いたら決めます」
ぐったりしている牧島を背に甲斐は胴着姿で車を降りて会場へと向かった。
会場の中は一歩入るだけで空気の違いが分かった。密集しているわけでもないのに満員電車に乗っているかのように圧を感じる。それはひょっとしたら気に呑まれているだけなのかもしれない。しかし、多少の緊張感は持った方がいいだろう。ベスト8のトーナメントは明日だがしかし今日とて決して油断していい一日ではない。今、視界にいる誰が世界で一番強い奴になるのか分からないのだから。
「お、来た来た」
客席。同じ道場のメンバーが応援に来ていた。
2年前までは同じ世界にいながら今は違う道を生きている斎藤はその中にいて微妙に居心地が悪そうだった。
「……気にしなくていいよ斎藤君」
「最首」
最首ーーー最首遙。クラスメイトであり、現役空手選手の女子。全国大会には参加できなかったがそこそこの実力者であり、その辺の悪漢では歯が立たないだろう。甲斐や斎藤とは長い付き合いであり今日も別に声をかけられたわけでもないのに当然のように応援に来ていた。
「あの人が負ける訳ないし」
「いや、そんな心配はしてないし流石に優勝できるとは思ってないが……」
なお、一時期だが彼女は甲斐の教えを受けていたことがある。だから時折こういう全肯定が怖い。
「けど、今日うちから出るのはあいつだけじゃないんだ。誰かあいつのことも見てやろうぜ」
斎藤の視線の先ーーー甲斐以外にもう一人いる大倉道場出身の選手。その名は馬場早龍寺。甲斐や斎藤、最首とは学校は違うが同い年だ。年齢同じ、実力近しで仲がいいわけではないが面識はある。珍しいことに今回の全国大会には大倉道場から2名が出場することになっている。
本来なら代表を決めてそれから地区大会で優勝するのが全国大会出場選手のセオリーだったがこの2名のうちどちらが上かを決めることは道場内では出来なかった。特に今回は未成年限定とは言え世界最強の空手家を決めるための大会だ。そもそも参加させてしまえばその疑問も消えてなくなる。そしてお誂え向きに二人が戦うことになるとすれば明日のベスト8以降と言う状態だ。そんなに意識しているわけではないがまるで宿命の対決だ。
「……さて、そろそろ行くか」
そして甲斐は決戦の畳へと向かっていった。

大倉道場用控え室。
「そろそろ始まりますね」
「そうだな」
スーツ姿の大男が3人。中年のより筋肉質で背が高い方が大倉道場の師範である加藤研磨。加藤に比べればやや小柄な岩村利伸。そして初老が大倉機関会長の大倉和成。事実上の3トップがこの大会の行く末を見守っている。しかしそこには不釣り合いな姿もあった。
「……」
制服を着たやや小柄な少女。彼女は無言のまま試合の様子が映し出された巨大モニターを凝視していた。

1試合は1ラウンド3分。本戦一回、延長戦一回、再延長戦一回、それぞれ20秒のインターバルを挟んだ10分間で決着が付く。よほど実力に差がない限りは基本的にどの試合も再延長戦までもつれ込むのだが、
「せっ!」
「そこまで!!」
審判に止められ甲斐が下段払いーーー一本取ったことの証を行う。
「勝者……大倉道場・甲斐!」
「押忍!」
判定が下り、甲斐は一礼をしてから畳の間から下がる。
「相変わらずすげぇな、あいつ……」
「ここまで3試合全部本戦だけで相手倒してるぞ……」
「あれが大倉道場の”拳の死神”か……」
ギャラリーがざわめく。
(拳の死神、ね)
甲斐はその単語を聞いてため息をつく。とは言えコレまで全試合をKOで勝利してきているのは間違いない。空手において決着の方法は相手から一本を二回取るか、判定で優勢をとり続けること。この二種類が9割を占めると言っていい。それなのに最初の3分以内に相手を戦闘不能に叩きのめして勝利を重ねていくというのは例外中の例外だ。そして蹴り技でそれを成し遂げているのならまだしも甲斐は全てパンチだけでこの偉業を成し遂げている。そんな事実があるのだから拳の死神呼ばわりも不思議ではない。尤もその二つ名を流行らせた斎藤への恨みがないわけではないが。
「……続けよう。先は長い」
今日だけでもあと2戦ある。その2戦を勝たなければ明日の大会には参加できない。先ほどはああ言ったが優勝できるとは限らないが優勝に向けて力を尽くさないつもりはない。それはこの場にいる全ての選手が心に秘めていることだろう。一瞬の油断がその秘めた夢の瓦解につながる。殺生はないにせよ、ここは戦場。誰もが譲れぬ大一番の夢を誰もが求めて死力を尽くす舞台。

午後7時。全ての試合が終わり、明日のベスト8に進出できる8人が全員揃った。否、8人で全員ではない。出場資格が認められた8人のうち3人がそのための試合で骨折した。1年に1回の大舞台。しかし、ここで無理して続けてしまえば一生ものの傷害になりかねない。それを考慮した結果その3人は涙ながらに明日のトーナメントを辞退したのだ。つまりベスト8の決勝トーナメントはベスト5の決勝トーナメントになったことになる。
優勝のために必要な勝利数が少なくなったのは5人全員が僅かながら安堵したことだろう。
「……」
発表されたトーナメント表の前に5人。言葉を発するものはいない。甲斐の出番は最後ーーーシード枠。そして最初に戦うことになるであろう相手は馬場早龍寺。もしくは彼を倒したものとなる。どちらにせよ、十全以上に力を出さなければ勝ち目はないだろう。
「……やってやるぜ」
静かにつぶやき、その場を後にした。

午後11時過ぎ。再び牧島の車で寮にまで戻る。
「……」
もう寝ているかもしれないが一応ノックをする。
「どうぞ」
声が返ってきた。蒼穹は起きているようだ。
「まだ起きていたのか」
中に入る。左側の部屋で蒼穹が寝間着姿で横になっていた。
「たたき起こされるよりはマシ」
「……悪い」
「もう寝ていい?」
「ああ。ありがとう」
「……」
やがて蒼穹は寝息を立て始めた。それを確認してから甲斐はシャワーの用意を始めた。
「……明日で全部終わる」

翌朝。準備を整えて寮を後にする。今日も牧島の車で移動する予定だ。
「……え」
駐車場。そこに斎藤や最首だけでなく、今までクラスメイトだった事もある生徒達が何人か集まっていた。
「お前達……」
「世界一取ってこい」
「……ああ」
左右に分かれ、道を作った級友達の間を通って車に乗る。
「先生、出してください」
「……当たり前のように送ってもらう気なんだよな。……送るけどよ」
「感謝してまーす!」
そして歓声を受けながら甲斐は寮を後にした。
「いよいよ今日だな。世界最強の男になるんだろ」
「たとえ今日優勝しても飽くまでも未成年の全国大会優勝者ですから。今回出られなかった強豪もいるでしょうし。来年にはもっと強くなっている奴もいるでしょう」
「何だか乗り気じゃないな」
「……そんなことないですよ」
拳を握りしめ、甲斐は決戦へと臨む。
二日目と言うこともあり開会式はかなり省略された結果となり、すぐにベスト5の最初の一回戦が始まった。甲斐以外の対象選手が一斉に試合を始める。
戦っている畳の上では尋常ではない熱気だけが迸る。客席からも熱気が渦を巻く。その中で甲斐はこの上ないほど緊張の渦に苛まれていた。
「……トイレ済ませておくか」
闘技室を出て廊下に出る。すぐそこに男子トイレがある。胴着だと用を足すのが面倒だがもう慣れた。
「……」
用は足したが緊張は晴れない。こればかりは自分との戦いになる。
「落ち着け。こんなところで緊張で負けたら一生の恥だ。見送ってくれたあいつ達に笑われてしまう」
ツァイキングアップを行いながら闘技室に向かおうとした時だ。
「あの、」
「ん、」
少女の声がした。見れば中学生くらいの少女がいた。
「客席ってどうやっていけばよろしいでしょうか?」
「あ、ああ。それならあの突き当たりを曲がればすぐだ」
「ありがとうございます。これから準決勝ですよね、頑張ってください」
「あ、ああ。ありがとう」
それだけ言って少女は曲がり角へと消えていった。何だかよく分からないが少し緊張がほぐれたような気がする。
「……行くか」
闘技室へと向かう。そこでは既に片方の試合が終わり、もう片方も終盤となっていた。
「決まりました!!勝者は赤・馬場早龍寺!!」
どうやら馬場早龍寺が勝利したらしく予想通りに甲斐は馬場早龍寺と戦うことになりそうだ。
「……10分後に奴との決戦か」
この戦いはフェアじゃない。馬場早龍寺はかなり消耗している。10分のインターバルでは気休め程度にしかならないだろう。逆に言えば次の試合では最初からコンディションが完成している状態となる。
「……気は抜けない」
精神を落ち着かせる。先ほどの緊張は悪い意味では存在しない。限界まで張りつめた緊張は武器になる。
やがて、準決勝の試合が始まる。連戦の早龍寺とは逆に決勝で待ち受ける相手はこの試合の間は体を休ませることが出来る。とは言え緊張は変わらないだろう。
「それよりも……」
畳。審判を挟んで早龍寺と対峙する。今からは畳の上で二人だけの世界が始まる。無事に畳の外に戻れるのはどちらか一人だけ。その一人だけが世界最強を決めるための戦いに参加できる。
「青……甲斐廉!赤・馬場早龍寺!」
名前を呼ばれて両者が畳の上を進む。
「正面に礼!お互いに礼!構えて……はじめっ!!」
審判が下がると同時に甲斐と早龍寺は正面からぶつかり合う。
接近と同時に放たれた互いの上段蹴りを激突。まるで刀剣の鍔競り合いのように足と足の力比べを始めたかと思えば剣戟のように空を切りながら何度も交差させる。
「……くっ、」
先に蹴足を畳におろしたのは甲斐だった。より背の高い早龍寺に分があったのも事実だが純粋に足技の実力で差があった。
ここは相手の有利だと判断した甲斐は一気に接近する。当然早龍寺はそれを許さぬよう、甲斐の接近に合わせて前蹴りで迎撃する。ガードをすれば押し戻され、回避すれば接近できない。その意を担った前蹴りはしかし甲斐の拳で弾かれる。
「!」
横殴りにずらされ、意図も体勢も崩された早龍寺の手が届く範囲に甲斐は接近を果たした。
「行くぜ」
「っ!」
早龍寺はガードをしたまま下がろうとする。だが甲斐の殴打はガードの上からでも十分な衝撃を生じる。まるで直接内臓を殴られているかのようにとても重い。重さだけでなく速さも侮れない。これまでその試合は何度も見てきたし昨日の試合でも甲斐のパンチは見てきた。脅威だが十分に対応できると思っていた。だが、実際に自分に向けて放たれるとなると勝手が違う。
(反応は出来てもそれ以上の対応が出来ない……。このままだとガードしている腕が使い物にならなくなる。そうなったら最後だ。つまり、奴を相手に防御は死を招く。守ったら負けだ。攻める!!)
「!」
早龍寺はついにガードをおろし、甲斐の拳をその胸で受け止めた。刹那にも満たない時間、早龍寺は心臓がつぶれたような感触を得た。だが、生きている。だからこそ反撃を開始する。
「そっ!!!」
早龍寺の右足が甲斐の右足の内股に打ち込まれる。それは足を蹴るのではなく斬る勢いだ。
「く、」
思わず打たれた右足を宙に浮かせる甲斐。その僅かな瞬間を逃さずに早龍寺は軸足となったままの左足で前に進むように短く跳ぶ。そして前に放ったままの右足を一瞬膝で折り曲げ、
「っ!」
「そっ!!」
甲斐が顔面へのガードを作ったその間隙に早龍寺の右の前蹴りはガードをあざ笑うように甲斐の鳩尾へとぶち込まれた。
「………………ぐっ!!」
僅か一撃。その一撃だけでそれまでの攻勢を崩され自ら二歩を下がる甲斐。研ぎ澄まされ、狙い澄まされた一撃はたとえ備えていたとしても確実に相手の体力を削り砕く。特に今のは先に足を潰すことで回避を防ぎ、フェイントにより防御さえ砕いた。その上でまっすぐに急所をぶち抜いた。
一般人ならたとえ同体格の成人男性であっても無事では済まないし、場合によっては即死する可能性だってある。
「……くっ、」
3歩を下がり、肩を揺らして呼吸を整える甲斐。その有様にさらなる追撃を加えながら早龍寺は思う。
(予想以上のタフネスだ。だが、今の一撃で死ななかったのは予想通りだ。これで終わってはつまらないからな……!)
放たれた中段蹴(ミドル)は甲斐の帯に打ち込まれた。本来なら帯を蹴ればその堅さに足を傷つけてしまうだけ。だが早龍寺の技はその領域にはない。むしろその堅い帯を甲斐の胴体にねじ込ませ、内臓系へのダメージへと練り上げる。
「ぐはっ!!」
右足では耐えきれず甲斐の筋骨隆々が宙に浮かぶ。
(追撃を……)
「させっか!!」
左側に傾きながら宙に浮かんだ甲斐に迫る早龍寺。そこにタイミングを合わせて甲斐が両足で早龍寺に跳び蹴りをかける。
「っ!」
相手の蹴りで飛ばされた後のドロップキックは、通常その名に見合うだけの威力にはならない。だがカウンターとなれば話は別だ。
ほぼ不意打ちに近い両足が早龍寺の下腹部に打ち込まれて後ずさる。
「くっ、」
わき腹から畳に落ちた甲斐は1秒以内に立ち上がる。もし1秒経ってしまえば相手の得点になるからだ。
互いに立ち上がり、一瞬だけ時計を見る。試合開始から20秒程度しか経過していない。たった20秒でお互いここまで体力を消耗する。これが畳の上での真剣勝負。これが極真空手の試合だ。互いに180秒ごとの判定にまでもつれる気など毛頭ない。それまでに可能な限り相手を叩き潰す。
「っ!!」
踏み出す。早龍寺は近づけまいと前蹴りを、甲斐はそれを殴ってそらして懐に入り込む。が、それを待っていたとばかりに早龍寺は膝蹴りに切り替えて甲斐の右足に振り下ろす。
「ぐっ!」
2度の右足への攻撃により甲斐の接近が鈍り、ギリギリ手が届かない距離となった。つまり届くのは早龍寺の足のみ。足の長さからも甲斐の足は届かない。これを甲斐が理解した瞬間に早龍寺の回し蹴りが甲斐の左脇腹向けて放たれた。
「重ね刃!」
「!?」
直後、甲斐は左足を軸にして自分の体を独楽のように回転。その際に右膝で放たれた早龍寺の回し蹴りを弾いた。
「くっ」
臑の当たりを膝で弾かれた激痛で怯み、その間隙に甲斐が一歩前に出た。これで甲斐の手が届く距離だ。
「せっ!!」
怯んだ僅かな瞬間に再び甲斐の、拳の死神とまで言われたパンチラッシュが始まる。一発一発がガードの上から骨も内臓も砕かんばかりの重み、早龍寺ほどの実力者でも防御以外の手段を執ることが難しい速度。これに対抗するには重傷を覚悟してカウンターをねらうしかない。
(……なら!」
頭で出した答えはそのまま声に出て行動に移る。体が浮かぶほどのパンチを受け、しかしそれでも前に出て甲斐の軸足である左膝を足場にして跳躍。
「!」
「そっ!!」
そして早龍寺の右膝が跳躍の勢いのまま甲斐の顔面にたたき込まれた。プロレス技のシャイニングウィザードだ。プロレス技ではあるが空手のルールに則っていればもちろん使用可能だ。
「ぐっ……」
激しく頭を揺さぶられた甲斐は2歩を下がり、ついには膝をついてしまう。が、激痛と頭痛とめまいより先に甲斐は倒れるように前に進んだ。
「!?」
一本を取ろうとしていた早龍寺の懐に突進するようにして拳を打ち込む。
「……く、」
二人揃って倒れ込み、畳の上に大文字となる。
「両者、立てるか!?立てないか!?」
「「……た、立てます!」」
手放し掛けていた意識を取り戻して二人が同時に立ち上がった。
そして、そこからは激しい攻防の応酬が始まった。
殴る、殴る、殴る、殴る、蹴り返される。胃液を吐く。殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、殴る、蹴り返される、顔面に膝を打ち込まれる。視界が赤に染まる。殴る、殴る、殴る、殴り返される。
「ラスト10秒!」
審判の合図を受けて二人は意識を取り戻し、全力で仕掛ける。
甲斐の繰り出したパンチはこれまで以上にする鋭く速く。が、歯車が噛み合った。早龍寺はその技のために素早く側転するように身を屈めていたことで甲斐の拳を避けられた。
「!」
「腰回し!」
片足をつけた状態での側転。まるで死神の鎌か鉄槌のように宙で弧を描いた早龍寺の右足の踵が甲斐の右膝へと打ち込まれた。
「が、がああああああああっ!!!」
激痛が走り、そして感覚が止まる。太股の当たりで力が止まる。
「……やったか」
立ち上がった早龍寺。しかし、その瞬間に甲斐の左のアッパーが早龍寺の顎に炸裂する。
「!!」
これらの激突は一瞬に終わり、決着もまた無音の静寂の中で果たされた。
3分過ぎたことを伝える電子音が鳴り響いた。
「そ、そこまで……!」
やや遅れて宣言する審判。しかし彼以外に畳の上で立っているものは居なかった。
「……くっ、」
右膝から下が無感覚に垂れ下がりながら疲弊した肉体を両手と左足だけで支える甲斐。
「…………」
脳天から出血し、大文字に倒れて動かない早龍寺。
「……両者、立てるか!立てないか!?」
再び投げかけられた審判の声に、しかしどちらも動くことは出来なかった。
「……勝者……なし!!よってこの勝負は引き分け!!」
下された審判。それを最後に甲斐もまた意識を失ったのだった。