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瞑想日記⑯【役行者からの教え②】(自利という私の過去世)

前回書いた、大峯山での役行者からの学びには、実はさらに予想外の続きがありました・・・。

10月30日の飛騨高山でのZEROマインドワークショップや、11月26日27日28日のゼロになるリトリートin京都にむけて、
自分自身の準備と成長のため、奈良県洞川(どろがわ)の役行者(えんのぎょうじゃ)が開いた大峯山(おおみねさん)に参拝した時の話をしました。


大峯山だけでも、自分としては予想以上の経験と学びになったのですが、
実は、山から降りた後にもまた予想以上の!!経験と学びが待っていました・・・。


前の記事を読んでいない人に大峯山の気づきをまとめると、

苦により、自らの心が乱れている時ほど、
安定させるために「何をしたらよいのか」とばかり右往左往しますが、
何かすることを考えるのではなく、「何かをしようとするな!無になれ!」という在り方にこそ、
心を安定させる突破口があることを直接学ばさせていただきました。


そのような、自分でも深い気づきを役行者からいただけたことに感謝して、大峯山を降りることにしました。




山中で氣功をしたり瞑想したりしていたので、合計で7時間30分の参拝となり、
登山口である女人禁制結界の門に帰ってきたのは、夕方6時30分を過ぎていて、すでに辺りは真っ暗でした。



車に乗り、その日に泊まる宿までをナビで調べてみると、ここから5分という近さです。


夜の7時までには到着することを連絡していたので、無事に間に合って、宿の人に迷惑をかけないで済むことに安心しました。



そして、暗い山道を車で進み、あと「1分程で宿に着きます」とナビが教えてくれていた、その直後!、
急に車がハンドルとは関係なく大きく揺れだし!、
「何!!」と驚きながら揺れた矛先に瞬時的に目が行くと、
なんと運転席の前側に《黒い物体》が突進してきた映像がよぎりました!!

私は、正直その時の瞬間的な思いを書くと、その《黒い物体》を本気で「鬼だ!」と思いました!!


瞬間的に鬼だと思ったのには訳があり、実は役行者は、前鬼(ぜんき)、後鬼(ごき)という夫婦の鬼を従えていたとされていて、
その後鬼(ごき)の子孫による里こそが、この洞川の場所だと言われているからです。


昔、前鬼(ぜんき)・後鬼(ごき)という夫婦の鬼は、人里で悪さをしていましたが、
生駒(現在の鬼取町)で役行者による不動明王の秘法で捕獲され、
そこから弟子として従うようになったといいます。


役行者は、彼らに、山中の修行者に仕える大切な仕事として、
水をくむ事、薪を拾う事、食べ物を作る事などを教え、後に役行者の高弟と成長していきました。


役行者がこの世を去る最後の時、
「私はいよいよこの世を離れて行くが、お前たちを連れていく事はできない。
しかし、私の魂はこの大峯に置いて行きたいと思う。
これから後は、おまえたちが大峯山に修行に来る人たちをお守りしなさい」

という言葉を残し、それから前鬼と後鬼は修験者の修行のお世話をするようになったのです。



その後、前鬼の子孫は、
奈良県吉野郡下北山村大字前鬼の「前鬼の里」に住み、
大峯修行の人々の道案内をしたり、宿坊の世話などしていきます。



そして、後鬼の子孫は、この奈良県洞川に住み、修験者のお世話をするようになり、洞川(どろがわ)の人たちはその後鬼の子孫であると言われています。


そんな洞川の地でしたので、
絶対に人がいない所に急に霊が出たかのような具合に、車を大きく揺らした《黒い物体》を瞬間的に「鬼だ!!」と思ったのだと思います!



今まで車でぶつかったこと等なかったので、一体何が起きたのかもわからず、すぐに車をとめて、辺りを見回しました。


ぶつかってきたと思われる《黒い物体》は、もうどこにも姿がなく、
とりあえず何が起きたのかわからないまま、
後1分で着く予定だった宿に着いて外に出ようとした所・・・、
なんとドアがいつもの力では開きません。



「これは、やばいことになったのでは・・・」と思いながら、
力を入れてドアを開け外に出て車の状態を見てみると、
私の悪い予感通り、ぶつかったところが相当に凹んでいました・・・。


これはどうしたらよいのかと立ち尽くしていた所、宿の人が出てきてくれて、
「これは鹿とぶつかったね」と言って、
凹んだ車の部分に挟まっていた鹿の毛を見してくれました。

「鹿?鹿がぶつかってくるってよくあるんですか?」と聞くと、
「ちょうどうちの娘も一週間前に車に鹿がぶつかってきたんだよ」と言われました。


1週間で知り合いに二人も車と鹿がぶつかるのも、珍しいと思うのですが、
宿の方は娘さんの経験から、鹿とぶつかった後には何をすればよいかを全部理解されていて、
「まずは警察に行って、事故証明を出してもらい、その後、保険に連絡しておくとよいよ」と、
どう対応したらよいか全くわからないアタフタした私に、的確にアドバイスしていただきました。


やることがわかることで、出来事よりも自分の気持ちが落ち着き、
言われたとおりに事を済まし、宿の人にも「災難だったね」とねぎらいを受けながら、部屋に戻りました。


車の凹み方から結構なぶつかり方でしたが、車は無事に走っているし、
自分の身体や鹿の状態も多分命は大丈夫だったことに救われながら、
それでも、自分の内側ではモヤモヤしたものが残り続けていました。


「大峯山の参拝は、自分の人生でもとても学びの深い体験だったのに、
山を降りた直後に鹿がぶつかってくるなんて、このタイミングは何なんだろう・・。」


別に偶然そういうこともあるとは思うのですが、
人生で初めての鹿とぶつかるなんてことが、
この大峯山というエネルギーの後のタイミングに来ることは、自分では偶然には思えないというのが本音でした。



そして、しばらく心を落ち着かせるため大峯山で学んだ通り「何かしようとせず、無になる」ことにしました。

すると、大峯山を登っていた時に、たった一つの〈違和感〉を感じていた出来事が思い出されてきました。

それは、山で出くわした鹿が、必要以上に私を恐れていたように感じたことです。


普通から鹿は臆病な動物ですが、
自分の心が開かれた大峯山で、唯一鹿との関係に心が繋がっていないものを感じていて、
少し寂しい〈違和感〉を感じて登っていたのです。


忘れていたその寂しい〈違和感〉が思い出すことができた時、なんとなくあるイメージが出てきました。
(ここからはその時の個人的な体験です)



それは、私が昔、この大峯山で修行をしている映像でした。

多くの修験者と共にいて、私は修行場である「西の覗」で絶壁の下に頭を向けて、
その恐怖心を克服して、自分の霊性を高めることに人生を捧げていました。


今回、初の大峯山でも、この「西の覗」での恐怖心の克服に、何故ここまでこだわっているのだろうと自分でも思うくらい、
心の恐怖の克服に意識を向けていたのですが、
それは、過去(世)での自分の経験だったということに気づいてきました。


その時、同時に私が若い時によく見ていた悪夢が思い出されました。
それはものすごい高い山の崖から、下の森の中へと落下していく夢です。
落下して落下して、だんだんと下の森が目の前に迫ってきて、最後にぶつかる瞬間に「はっ!」と目が覚めるというものです。


落下の夢は、その時の精神と密接にかかわっているようですが(自信のなさ等)、
その落下していく先はいつも同じ森のなかで、その森が「西の覗」から下に広がる森と同じ森であると感じました。



もしかしたら、他の方が「西の覗」に行っても、私が前回の記事で言うほど恐怖心を持たない人もいるかもしれませんし、
記事でも私の恐怖心は伝わっていない部分もあったかもしれませんが、
それは、私が感じていた「西の覗」での恐怖心は、
過去(世)からの積み重ねによるものだったのかもしれません。


と、ここまで映像と因果が自分の中で繋がった時、
ふと、過去(世)の当時、大峯山を修験者の修行場として発展させすぎてしまったことで、
自然に山に暮らす動物たちが人間に恐れを抱いている心が感じられてきました。


そして、その過去(世)での私は、
その代表格のように、周りの動物たちよりも、自分の霊性の進化、つまり〈自利〉しか見えていなく、
役行者の教えである《利他》のための修行に全くなっていなかったことが思い出されてきました。



余りにも神格化された修験道は、自利の要素が強まっていき、動物や自然の心を見落としていたのかもしれません。



修行から《利他》が失われていた事に気づいた時、映像から意識が戻ってきて、
「自分は今回も自分の成長の為だけに大峯山に登り、また同じ過ちを繰り返している。
最後の鹿との事故は、過去(世)で〈自利〉しか見えていなかったことで、動物を苦しめていた自分の業だったのではないか。
そして、今回の学びは自分のためという〈自利〉ではなく、《利他心》を育てるためであることにこそ、本当の学びがあったのではないか」ということに気づき、
大峯山での今日の学びと成長を、
山の自然の為に、鹿や動物達の心の平安の為に、
仏の教えである生きとし生けるものの苦しみを取り除く為に捧げる事へ合掌しました。



多くの人と自然をこよなく愛した役行者は、〈自利〉だけではなく《利他心》としての修験の道をお説きになったのだと、
最後の最後に気づかせていただきました。


今回の大峯山がいつも以上にハードな展開だったので・・・、
改めて役行者がこの大峯山を開いた歴史を調べてみると、
役行者が大峯山を開いたのが38歳の時と書かれていたのを目にして、私はものすごくびっくりしました。

なぜなら、自分も同じ38歳のタイミングで今回この大峯山に初めて登り、様々な体験をいただくことができたからです。


一連の出来事は、この大峯山の自然の力と、修験者を導くために役行者が大峯山に置いていると言われる魂によるものだったように深く感じました。



なかなか気づけないことですが、私たちの人生とは、いつも過去の先人のご縁に導かれているのかもしれません。

それは日常では忘れやすいのですが、
その人が、今世だけではなく過去(世)からの繋がりがある場所に行った時、
その縁起によって、私たちは、時間の枠を超えて、自分の内側から、まるで何年もかけて学ぶようなことを一瞬で学ぶようにできているのではないかと思います。


そう考えると、人の人生とは、同じ時間でも、縁起があるかないかで全く違ってくるように感じました。


これは、私たちが学校や親から学ぶことのなかった魂の法則で、そんな縁起の力に私たちは支えられていることを深く感じた大峯山となりました。

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