歴史の中にいるということ

今、2020年の4月の終わり近くの土曜日の真夜中(日曜日の朝早くとも言える)で、未来の私が(もしくは他の誰かが)これを読む頃には「あぁ、そんな事もあったね」とか言うんだろう。いつも私たちはそうだ。

COVID-19、Coronavirus disease 2019。SARS-CoV-2、Severe Acute Respiratory Syndrome Coronavirus 2。 新型コロナウィルス、私たちは無邪気にも「コロナ」と軽く呼び慣れてしまった。「新コロ」などというちょっと色々疑いたくなるような名称を使う人や、発生地だと憶測された中国の武漢市の名称を入れるべきだと何故か力説する輩も出てきた。私はせめて良識ある人間だったと思われたい欲はあるので、ごく当たり前に、今現在、一般的に呼ばれている「コロナウィルス」と表記しておきたい。

私は2019年の年末に「ちょっと本当かどうかわからない」ニュースとしてネットの片隅で「それ」を見た。「中国の武漢市で謎の伝染病発生か?」の様なタイトルの短いものだったと記憶している。後から知ることになるのだけれど「19年の11月に発生して12月31日にWHO、世界保健機構に報告され」ていた。他の文章では「SARSコロナウイルス-2は、2019年に、ヒトに対して病原性を有する7番目のコロナウイルスとして出現した」とかエヴァンゲリオンのシトかな?っていう書き方もされている。年が明けて20年1月の初めはまだ「中国で広がっている伝染病」という認識だった。どこか遠いところの話だった。現地でこの感染症による死者が出ても、周辺国やこの日本で罹患者が出てもやはり「どこかの怖いお話」だった。そう、私を含めた日本の人の大半は「(03年の)SARSの時みたいにいつの間にか終わるんだろう」という気持ちだったと思う。で、忘れる。いつも私たちがする様に。

この感染症の爆発的な流行の推移やその原因、そして結末などは、今、私がここであれこれ書くよりも、未来の読者であるあなた(もしくは私)の方が正確な分析やデータを直接探して見ることが出来るだろうと思う。
そう願っている。

二十世紀の末の始まりあたりに生まれてから、二十一世紀の初めの20%をこの日本という国で生きてみて、実にまぁ、色々あったとは思う。大きな地震もあったし、それで原子力発電所がぶっ壊れて大変なことになったりしたし、何度も世界的な経済危機は来たし、ゲームはものすごく綺麗な画になって、映画はフィルムではほとんど撮られなくなった。私が子供の頃大好きだったテレビもすっかりつまらなくなって、我が家には今、テレビ放送の受信機はまともなものが無い。新作の海外ドラマシリーズもwebで視聴できるし、国内の古本屋さんに在庫の有無を問い合わせる事も非常に簡単になった。ちょっと時間はかかるけれど、この国では売っていない様な洋服も簡単に海外から直接購入できる。リアルタイムで流れていくマルチワイドなインスタントメッセージのウィンドウを閉じることはほとんど無い。そこではいつでも誰かが何かに不満を持っていて、戦場で攻撃を受けているフリージャーナリストのルポも、猫の写真も同時にいつでも好きな時に見放題だ。私も子供の頃に感じていた、痛い程の「なんとかして世間に認められたい」という欲求を満たすツールはいっぱいある。正直、うらやましい。でも「旧時代」の、「前世紀」の人として、テレビが面白かった頃や、印刷された紙の本を読む時間や、自分より昔からある音楽や映画に触れて生きてこれたのは幸せだったとも思う。文化や歴史を肌に感じながら掘り起こしていく作業を経験出来て、本当に良かった。

歴史がテーマの本はドラマティックだ。淡々とした統計ですら、意味を読み取れた時に感じる気持ちは十分に劇的だ。そしてほとんどの歴史の本は一つの事件なり、一人もしくは複数の人物に効果的に光を当てて、時間を巻き戻して、カメラアングルを工夫しながら過去の事を語る。そしてほとんど忘れられてしまうのが「登場しない人々」の存在だ。同じ瞬間を生きていてもカメラから外れている人々や事柄は、登場人物や語り手が気にしなければ「無かった」事になる。当たり前だ。シーザーが刺殺された瞬間に存在していた人々のすべてについて書くことは不可能だし、可能だったとしても、読み終える事どころか、一冊の本として書き終える事もできないだろう。シーザーはおろかローマ帝国という国の存在も知らずに生まれて死んで行った同時代人も沢山いるだろう。同じ日に博打で大儲けをした人もいただろうし、あまりにもつまらないことを言うという理由で、最愛の人に嫌われたばかりの人も、お腹が痛いので今日は仕事を休みますと宣言して二日酔いのままもう一度寝床に潜り込んだ人もいただろう。歴史は本当はそういう「しょうもない毎日」の繰り返しだ。

今、世界中が震えて、怯えて、来るべき次の章を待っている。情報の速さは命を守ると同時に、個々の不安も光の速度で広げる。本当は私たちすべてが、本当の意味での孤独に向き合う良い機会なのかも知れない。でも私たちはあまりにも弱い。対峙すべき内側の闇よりは、たとえ嘘であっても、自分と似た様な人たちとの心地よく感じる接続を選ぶ。そしてまたいつのまにか、忘れる。

そんなに世間的な大事件じゃなくても良い。自分が過去に経験して来た些細な出来事を、何かの拍子に不意に思い出した時に、私たちは驚き、怯える。その記憶に対してではなく、忘れてしまっていたという事に対して。

もし忘れるという能力を失ったら、記憶はとても苦痛だろう。忘れて、その断片から再構築されて自分にぴったりと馴染むバージョンに編集されたものが、私たちがいう「思い出」であり「記憶」だ。明らかに現実の出来事とは関係なくなってしまっていることがわかっていても、当惑した様な、諦めた様な、なんとも曖昧な微笑を浮かべてそれをまたポケットに入れる。そしてまた忘れる。

歴史は「忘れない為に」語られ、綴られる。今、私たちが直面している疫病の話もまた、大地震や台風などと同じように編集されて記憶されて、時々思い出されたり、研究されたり、改竄されたりしていくのだろう。また忘れるために。

(続くかもしれないし、そうじゃないかもしれない)

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