連帯責任がキライだった頃の話

私は公立中の出身だ。
とても落ち着いた、治安の良い地域だ。しかし、なぜか私の中学の、私の学年だけ、かなり荒れていた。
どのくらいかというと、
・雨の日は傘が折られるので、傘立ては係が鍵のかかる部屋に運ぶ
・地域で万引きが起こると、どうせうちの中学のうちの学年だろうと思われる
・公園で騒ぎを起こし、生徒が出禁になる

こんな状況なので、よく問題が起こり、「明日は学年集会なので早く来ること」なんていうのもザラだった。
そして、そこで教師から話される内容は、いつもいつも同じ。
「我々○中生としての自覚を持て(公立中とはいえ、学力の高い学校だった)」「学年としての雰囲気がダメ、連帯責任だ」「関係ないと思って聞くな」

常々馬鹿馬鹿しいと思っていた。
たまたまこの地域に住んでいただけで通っている学校に対し、自覚も何もあるか。
私は真っ当に生活している、一部の非行少年どもと一緒にするな。だいたいあいつらが悪さをしている現場を知らないし、明らかに関係がない。

しかしそれから10年以上経った今、思う。
人は往々にして、個人を「ある集団/属性の一員」としか見ていないことがある。

出身中学の隣には、高校がある。主な通学路は同じだ。
連帯責任に憤っていた中学生の私は、
「この高校生たちは、いつも帰りに道に広がっていて邪魔だ」
と思っていた。
どの人かなんて見ていない。とにかく、「○高生」が邪魔だったのだ。
これはある意味連帯責任といえないだろうか。
道に広がっていない高校生もいるだろうに、とにかくこの高校の生徒は広がるから邪魔だと認識していたのだから。

何も知らない他人は、一個人を集団や属性でしか見ることが出来ない。
これは当たり前で、むしろ何の関係もない他人なのに個人を見ていたらそれはそれで怖い。
無関係の他人に、どんな経歴でどんな人間なのか、知られている方が恐ろしいだろう。

では私の中学の教師の言う、「連帯責任」は仕方ない?
いや、そうは思わない。

当時、「連帯責任」と言われるのが嫌いだと思っていたのだが、改めて考えるとその言葉が問題ではなかったのだ。
つまり、見ず知らずの他人ではない学校の教師に、他人事のように一括りにされたことが問題だった。
身近な人には、「私はあいつらとは違う」ことを認めてほしかったのだと思う。
…まあ、本当は認めてはいたのだろうけれど。

今、改めて考える。
周りの人たちを、ただ、「○○に属しているから」「○○たちの集団にいるから」と決めつけて見ていないか。
遠くの人に対しては難しいけど、せめて、近くにいる人たちは、ちゃんとひとりひとり見ていきたいなと、そんなことを思った。

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