小さな異文化交流。

私は中学から大学まで、常に部活に熱心に取り組んでいたのだが、全て全員で作り上げる音楽系の部活だった。パート争いなどもなく、むしろフラットな関係であることが大事だった。だからといってユルユルと取り組むのではなく、真剣に練習していた。
9年間もそのような世界で生きていたので、これを当たり前のことだと思っていた。

それから時は流れ就職すると、たまたま同期に大学の後輩がいた。彼とは面識がなかったが、話しているうちにその事実が発覚した。また彼は大学までずっと運動部で熱心に部活に取り組んでいたのだという。

先日、職場でちょっとしたイベントがあり、普段ない場所に椅子が運び込まれていた。イベントが終了した後、私はその椅子を全て重ね、持ち上げた。軽い椅子だったので、力がある方ではない私でもなんの苦労もなかった。すると、同期が駆け寄ってきた。
「いやいやいや、僕、持ちますよ。ほら」
「? いや全然大丈夫ですよ。軽いし」
「いやいや、先輩に持たせるわけには!手ぶらじゃ帰れないですって」
なんだか奪う勢いだったので、そこまで言うなら、と椅子を引き渡した。慌てて持ったせいで彼の荷物が落ちそうだったので、代わりにそれを受け取った。
その場は、「まあともあれ、明らかに彼の方が力はあるから、物を運ぶには適任か」と思ったのみだったのだが、数分後、違和感に襲われることになった。

つまり彼は、「自分が後輩だから」持ったのだ。私がはじめ、自分で運ぼうとしたのは、「たまたまはじめに椅子を回収しようと思ったのが自分だったから」だし、「能力的に何の不足もなかったから」である。
私にとってみれば、物事が進行すれば誰がやるかは問題ではない。しかし彼にとってみれば、先輩にやらせるのは大問題のようなのだ。それは彼が、ずっと体育会系の世界で生きてきたからなのだろう。

似たようなことが前にもあった。
大学の研究室で買い出しをするとき、先輩たちが進んで買い出し係を引き受けた。その結果後輩たちは留守番となったのだが、一部の後輩勢はそれでもとついて行ったらしい。彼らは高校が運動部だったのだが、後からこのように話していたそうだ。
「先輩に行かせて、後輩が待っているなんておかしい。この集団の悪いところだ」
実際に先輩がどう思っていたのかは知るところではない。買い出しの目的であるイベントは先輩たちが主に運営していたから、勝手がわかるので自ら行っただけではないのかと、私は思った。

こんなに価値観が違い、簡単には交わらないだろうということに、改めて驚いてしまった。私などは、逆に「後輩の手を煩わせたくない」と思う方だ。どちらが正しいということはないのはわかっているが、当然だろうというふうに言われてしまうと、首を傾げざるを得ない。

運動部/文化部という文化の違いは、なんとなく聞いたことはあるし、このような場面で表面化する。互いが自分の世界を当然と思わずに接していかないと、思わぬトラブルを生むだろう。

正直、この出来事には戸惑った。しかし、こうしたいわば「小さな異文化交流」を、楽しんでいくのが良いのだと思う。

私は4年間ほどにわたり、性格類型にハマっている。といっても、文献を読み漁ったりなど、専門的な部分にはあまり触れていない。主に、同じく性格類型に興味がある人々と意見を交わしている。
私と似た性格タイプの人、とてもかけ離れた性格タイプの人、さまざまな人の意見を見聞きした。運動部/文化部などという簡単な分け方ではない。一見同じような行動をとる人々が実は真逆の考えで動いていたり、友人といつも思考回路がまるで違ったり。同じように言葉を話す人たちが、こんなにも中身は違うのかと、今も毎日、刺激を受け取っている。

人はつい、似た価値観の人とばかり集まってしまいがちだ。
けれども、いろんな人がいるからこそ、面白い。
これからも、まるで違う人だと思った時こそ、異文化交流と思って楽しく接していきたい。

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