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『私が信じている常識という個の世界』

常識とはいかなるものか?


私は自分の考えが「常識」という括りの中に、
一つの固定された形で安定が守られ、
常に正しくいることができていると疑いもせず


「無意識」で信じている。


しかし、私が普段認識できている範囲とは、
前方180度の視野角、全周波数の中の
一部分のみを五感で感じ取っている。

なおかつ、毎日繰り返されるルーティンに
無意識下で従う生活を送っている。

どれ程のものを意識を持って観ることが
できているのだろうか?


「無意識」が私の実態である。


「私」

 は

「私の創った常識」

の中に内包されている。


では
「無意識の中にある常識」
というものがどのように
作られるか?である。


「常識を構成するもの」

自分の生活圏内の環境から作られる常識
自分が生まれた国、生活する地域、風習、社会、
自分と依存関係にある人間関係や
自分がいる環境から作られる常識。

自分の意思では無い依存関係から成るもの。

人の手で創られたものであるが、
自分が内包され自分自身では

意識することがなく定着する常識。


私達は生を受け世に生まれた時、
実は「全ての人が万能の可能性」を
持って生まれている。


日本に生まれれば、
日本語という言語を習得し、
日本の文化の中で風習や考え方、
物事の見方を学び身につける。


それが韓国に生まれれたならば、
フランスに生まれたならば、
インドに生まれたならば、
スペイン、サウジアラビア、
トルコ、ロシア、アメリカ、中国、
タイ、ベトナム………。


世界中にある国のどこに生まれたかである。


その環境に合わせ、真っさらな状態から
自然に順応するのである。

すなわち、生まれた場所によって、
その場所の文化やそこにある様々な

自分の相対となる「もの」

を吸収するのである。


もちろん先祖の型を染色体として
先天的に肉体性は受け継ぐのだが、


文化や知識は後天的に
定着していくものであり、

染色体によって生まれた瞬間に
自分の国籍が決定されているという事ではない。

すなわち、
国籍によって人格を否定される
理由はどこにも、一つもない。


人類として引き継いでいかなければ
ならないものはある。

それは様々な国の文化・風習であり、
その場所に生きてきた

人々の叡智と証である。

それぞれの文化と
そこに生きる人を
誰もが尊重すべきであり、

歴史として意思を受け継いでいくべき
大切なものである。


普遍的常識

科学という分野で表現される、
素粒子から極大の物質、

原子特異点から宇宙の果て(先)まで、
数式や物理法則(引力や重力など)で

科学として証明されてきた、
ビックバンから生まれた宇宙の歴史である。

人類の依存から離れた
自然世界・宇宙の循環と力の均衡、
流れを表すもの。

人が生命の根本を持続するための
肉体的、物質的常識。

人の手で創られたものではなく、
自分が内包され自分自身では
コントロールできない。

素粒子、原子核と電子、元素、
染色体、細胞、極小から極大。

地球としての海と大気の循環。
炭素循環。電磁波の循環。磁力。など

そこには固定された働きというものが無い。

毎秒毎秒移り変わる条件下で
循環と力の均衡をし続けるのである。



例えば、私達には当たり前である
24時間という地球時間は、

地球の自転と太陽を中心とする
地球の公転に相対する地球に
限定された時間である。

惑星の大きさによる自転距離、
重力による公転距離によって

その変動する惑星ごとに
時間の長さは変わっていく。


つまり、括られる宇宙の大きさ、

極小の素粒子の世界(宇宙)から
極大の世界(宇宙全体)に至るまで、

相対する様々な相対関係によって
変化をするという事である。


有限である自然世界の法則は
一つの場所に止まらず、

常に動いていて
極小から極大の世界まで
奇跡的なバランスを保ち、


「存在」という
安定した位置(座標)を生成する。


この常識を普段一切考えることなく、
私達は自分の生活圏内の常識によって
生きている。



環境問題が指し示すのは、
人類が生み出したテクノロジーが

この自然界の循環の中に
人工の事象という存在を生み出したままにし、
相対する取り込みを後回しにしてきた事
に対する現象である。

安定を保ってきた循環に事象を
増加させるならば、

事象を減少させるバランスを
「生み出す側」が

注視・実施することが約束されなければ、
止めるべきである。

自然界の循環は
「飛び出ている持ち込まれた事象」
だとも知らず、

増加した事象に過剰に循環反応し、
元の安定した循環を相対的に変えるからである。

世の中のニーズから作られる常識

現在の私達はニーズから作られる
常識に無意識下で確実に内包されている。

外的な人類のニーズの欲求から作られる。

特に注視するべきところは、
「自分と他との比較」から
全て創られるところである。

人類の歴史とは
「自分と他との比較」の歴史である。

人が生活を持続するための心的、精神的常識。

先人の知恵で歴史の中に
規則や法律を創り出したもの。

世の中の経済やビジネス。
お金や地位、権利や名誉。

他との比較によってニーズがより
多いものが優位性をもつ。


例えば、貨幣の本質・始まりは

「価値と価値の等価交換」であった。


いつしか「お金そのものが価値」である
という無意識化の錯覚が定着する。


人と人の比較、数字の出現、
経済の出現によって、


「価値の等価」

という本質が姿を消した。


「価値と価値の平等なる交換」
のために人が創り出したものが、

人々の貧困を生み、世界の経済の混迷を
引き起こしているのである。


「貨幣」とは人類が無から
生み出したものである。


『本当は存在しない』


「無」から生み出した事実を
歴史の経過と共に忘れてしまったのである。

現在の経済の形を見ると、


「人類の個の無限の可能性という価値」

  に対して、

「世界経済全体のお金の分母」

  が有限である。


新しい産業が生み出されても、
相対的な以前の産業が姿を消す。

全体として観る時、成長が横這いであり、
経済の分母が大きくならない。


そもそもにして、


「個の無限の可能性」
と相対のバランスが合わない。

より大きい資本(お金)を持つ事が有利で、
資本(お金)を持てない人や、
社会の経済活動に参加しなければ、
生きていけない社会の形態である。


本来人の持っている

「個の可能性の拡大の実現」

を歯止めするものである。


とても矛盾している。


『これでは貧富の差を埋めることはできない。』


また、インターネットが創る世界は

情報を
「知識としての価値」として蓄積していくが、
「お金としての価値」を時間の経過によって
平準化させる力を持つ。


インターネットが今までの経済の形を
良くも悪くも、壊し、
再構築している事は事実である。


インターネット、ITによる革命も
人類が生み出したものである。

「無」から「有形」を生み出すことが
可能であることをまさに人類が証明している。

(AI・ロボット・ドローン)

個の力を最大限に発揮するためのテクノロジー。

(オープンソース)

自由に組み合わせて構築・発展させることが出来るシステム。

(ブロックチューン)

個と個が全体を監視するセキュリティ。

(AIによる複合的セキュリティ)

指紋、角膜、生体リズムなど
複合相対的な「個性のID」。

匿名性の排除、プライバシー保護、
フェイクの無い本人証明を可能にする。

(シェアリングエコノミー)

「活かされ生かし合う世界」

個が生み出す「与える」分母が、
現在の「需要と供給」の分母を超え、
世界に満ちあふれた時、何が起こるだろうか?

「変えられるはずである」


テクノロジーをどう使うかは、
人類次第である。

「本質の価値という循環の目的を
 間違えてはいけない」

無意識を意識に変える。


全ての依存関係を省いた
自分自身の創造による常識


(1)(2)(3)の常識、国籍、肌の色、
性別、貧富、物理的法則、思想、

他と自分の比較の依存を除いた常識。

自分のオリジナルの想像から創造される、
自分だけしか生み出せない

個性から作られる特化された研究、
アスリート、
特定の分野を狭く深く追求する技術者や
アーティスト。


個人の生きることへの探求。


自分という存在が自分自身を見つめ、
自己評価のみが有効であり、

自分自身の無限の可能性を使い、
自分が望む姿を創る。


「自尊心を育てる」


最も大切な


「『私の存在』を支える場所」


である。


「私」と「私から外の世界」

「現在のありのままの実態の私」と
「過去(成功・失敗)の事実と
 未来(理想)の私」


様々な因果や内外圧の相対の中で
自分自身の創造による常識を
コツコツと積み重ね育てることができれば、


「『ありのままの実態の私』に
  意識を持つことができれば、
  自分という存在が地に足をつけ、
  自分自身を見失わない。」


「個」の道は、特化された狭く深い道である。
「ニーズの道」は需要と供給の範囲で
 覆われている。

「個の道」が極まって行った時、
 必ずそれを必要とする人がいるはずである。

「ものづくり」を

「ニーズから求められたもの」から
 創り出すのか?

「個の内側から生みだそう」として
 創り出すのか?


出来上がるものに大きく違いがある。

それぞれの極まった個が世界(宇宙)に
満ち溢れる未来へ。

私の持つ常識

この(1)(2)(3)(4)の

4つがさまざまな相互依存関係によって、
ブレンドされている。

その割合は一人ずつ全く違う
「個性の常識」となる。

このような要因で「自分の持つ常識」が
構築されることを知る時、

同時に自分自身で常識というものを
再構築できることも知るのである。


「毎日繰り返す習慣を変えることで、
 私は私を変えることができるのである。」


「常識」は時代と共に創られるものであり、
「新しく自ら産み出すもの」である。


「自分を超える」とは、
「自分の創った常識」の外に出る事である。



「個性とは?」

常識は共通の固定されたものではない。

誰一人として同じ条件で同じ知識、
常識、思考を持つ人間はいないという事である。

常識にとらわれず、
自ら望み努力を惜しまなければ、
いかなるものにもなる事ができる可能性を
持っていることになる。


一つの個を宇宙というとても大きい俯瞰で
観るならば、歴史とは「原始特異点」から
今(現在)の「瞬間の私」までである。


その間にビックバンから現在の人類の文明や
宇宙の存在があったといえる。


常識について述べたことと同様に、

原始特異点から球体状に枝葉のように
個性が派生展開している。

空間座標として観るならば、
同じ座標に重なっているものは、


1つもない。


なぜならば、地球時間の1秒ごとに
事象の置かれる環境が変動するため、

原子特異点から展開する点は

まるでパラレルワールドのように
ずれて派生する。

それが同じ時間軸の中で存在している。



それが私達である。



電子と相対する反発があるため、
事象同士が混在することはないのである。


生命の個性とは釈迦の言葉どおり、

「唯我独尊」

であると考えるのである。




私にかかるプレッシャーは
何処から生まれるのか?


近年、研究者によって、
「ヒッグス粒子」の存在が発見された。


全ての存在を解く鍵となる素粒子である。


私という「精神と思考」「肉体」を
存在させるためには何が必要なのだろうか?

私はすでに存在している私側から
逆再生でそれを考えてみる。


「存在と消滅」「意識と無意識」の関係で
「私の存在」は「私との相対」によって、

 初めて「自我」を認識できる事を書いた。


その「相対」を生む為の質量(進みにくさ)を
生みだす原因が「ヒッグス粒子」である。


進みにくさという「質量」は抵抗の力である。


「抵抗」とは何か?
「抵抗」が無ければ、どういうことになるか?


例えば地面を蹴ったとしても反発が起きない。


ジャンプする事はできない。走る事はできない。
立つことすらできないのである。


反発が無いという事はこちらで動いても
相殺と同じでエネルギーが生まれない。


例えるならば、超軽量の漂う羽毛に
パンチをするようなものである。
スルッと手から逃げていくだろう。


武道であれば、
相手の力を利用する合気道である。


元素も何も含まない場を相手に
こちらだけジタバタしている状態である。


電子のーとーが反発しなければ、
物質として存在を固定できないという事である。


重力と磁力がなければ自転も公転も起こらない。


つまり、ヒッグス粒子がなければ

宇宙は存在しないことになる。


重力の干渉がない場所はブラックホールから
こちら側の宇宙では存在しない。


存在する為のプレッシャー(質量)は
必要不可欠である。



私の精神・思考にかかるプレッシャーは
何処から来るものなのか?


ここでも私は思考の意識を
過去・現在・未来と分解して考える。


さらに相互依存関係か一方向の依存なのか?
分析する必要がある。


相互依存関係がある場合、
自分と相手の両方の問題を解決する必要がある。


一方向の依存の場合、
依存を持つ側の意識を無意識にする必要がある。


私が今からしようとしている事が
とても面倒であると考える時、
それは過去に既に経験している事である。


過去に同じ事をした時に
簡単ではなかったという事である。


これから初めて経験する事に対して
面倒であるという思考は働かない。


なぜならば、簡単か面倒であるかわからない。


過去に自分にとって良い経験は
自分の自尊心に優越性を与える、

自分にとって悪い経験は
自分の自尊心に劣等性を与える。

と無意識化で考えている。


良い経験も悪い経験もどちらも私の抗体となり、
後に抵抗力となるのである。


優越性と劣等性は

「自分と他との相対の比較から生まれる」

のである。


また、自分自身として感じ取る
優越性と劣等性は
自己存在保持の所有という観念である。


長い歴史の中で人類が
執着し超えられない性質である。


人間らしさともいえる。


「喜・怒・哀・楽」
という感情も自我と他の存在の
相対比較から生まれるものである。


逆にいえば、
自分と他を比較をしない限り生まれない。


比べる必要性は元々ない。


人類の歴史という結果が
比較の必要性を創り出してしまった。


プレッシャーは自分の中から生まれている。

他との比較だけではなく、
自分と自分との比較もしている。



過去の自分(優越性と劣等性の経験)と

現在の自分自身と

未来の自分(優越性と劣等性の予測と期待)。



現在の自分から遠く離れ、
どちらかに偏り過ぎると
それは自分を潰すほどの

大きな自重という力

に成り代わるのである。


現代人はこの自重にさらされていると
私は考えるのである。

浮いた状態になっている。

どうにもならない
孤独を感じているのかもしれない。



思考の消失により、
抵抗力を持たず大ダメージを受けてしまう。


直接物理的事象以外で

私の精神を脅かす精神的事象は



「実は存在しない。」



私の身体に終始くっついてはいない。


それぞれ独立した存在の
もの・人・社会・世界の中に自分がいる。


その中で私の生きている


私自身から一方向で観る

「幸福感と世界」

は私自身の想像と創造から生まれている。



過去・現在・未来の私の差異がない場合、
心は安定している。

良きライバルは力が均衡していて、
お互いが成長していくことができる。

差異が大きければ、
自分自身のプレッシャーに
なり変わるのである。

力の差がありすぎるとライバルとはならない。


私が世界を観る時、
私自身が創造したフィルター越しに
観ているのだ。



思考の抵抗を持つことの大事さ


人の精神が最も安定している状態を

「無意識と意識」の間

であると私は考えるのである。


どちらも必要不可欠である。


私の体が細菌を取り入れ、
抵抗力の抗体を持つように、


実体のある失敗と成功を
怖がらず体現してほしい。

そうして今ある(+)(ー)の
プレッシャーに対して

正対する(ー)(+)の思考を
持つことが大事である。


無意識と意識の狭間を知る時、

外の世界に依存しない

「あるがままの自分と創造思考」

に出会えるはずである。



つまり、あなたを責め立てるものは何もない。


あなたはあなたらしく
ありのままのあなたの道を歩いて行けばいい。

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