見出し画像

『善悪は常無・観焉は役割・裁者は極無』

今まで私は日本人の特性もあり、
常識の共通認識を無意識に
置物のようにしていた。

皆同じ常識を共通で持っていると
錯覚していたのである。


「人となぜ意見が食い違うのか?」


一つの事象について議論するとき、

二人の相対者は、
それぞれの立つ一点の空間座標を
始点とする方向で事象を見る。


自分側のみから観る問題解決の為に
自分側の解決案を机上に提出する。


これは、図形の三角錐を
相対者それぞれが上と横から見て、
両者共通の解決案を
生み出そうとしている事と同じである。


この時点で同じ条件(同じ観点)が
成立していない。


上記の「常識」と「個性」で述べた通り、
人一人の観点は人が存在する数だけある。


相手を深く理解しない限り、
本質的な議論展開は
できないということになる。


その為に、
その人が生まれてから現在までの
生きてきた環境、文化、
相互依存関係の空間座標の軌跡を追い、

相対者の思考の本質を理解することである。


つまり、
どのように思考が派生するのか、
相手に重ならなければ理解することができない。


まずは相対者の思考の本質を理解し、
相手の存在を認める。


その上で、
2者の「未来の目指す姿」を統合した

「全く新しい希望点」を創り、

それぞれが実現する為に、
何ができるのかを議論する。


既存の問題を解決する為には、
「個」と「個」からの方向視による
現状の修正による改善ではなく、


問題の解決の先にある答えになる階層を
より外包であるレベルに引き上げる必要がある。


「善と悪、正解と不正解はあるのか?」

「結論」を出すときに
一つの方向性で答えを導き出すことに
間違いがないと考えるのが常識である。

私は相対性の観点で物事を見つめると、
一つの事象が存在した場合、
その事象を挟んで二つの相対性が存在する。


どういうことか?


静と動。 柔と剛。 小と大。
弱と強。短と長。 遅と速。

ーと+。 低と高。 浅と深。
部分と全体。点と線。 不可視と可視。

不規則性と規則性。 単体と複合体。
部分と連続体。素粒子と宇宙。

無時間と時間。 無次元と次元。


の間に一つの事象が存在し、

また、一つの事象が生まれるところに
相対が生まれるという考えである。


また、
相対する事象は「相反」に受け取れるが、
実は同じ性質上の力の増減である。

相反するものは「表面上の事象」は
異なる性質に見える。

しかし、根本にある「本質の運動」は
酷似した鏡のような「同一の運動」をしている。


主観の始点位置が180°変わると、
同じ事象に対して全く逆の意味を持つ、
180°逆位相となる。

相対に当たる2つの事象のどちらかの力が
0になれば、相対関係も消滅し、

相対していた

「名付けられたもの」が

意味をなさなくなる。


つまり、全方位における
相対関係が存在しなければ、
空間座標とならず、

ただ一つの1点である0点「無」となる。


「善と悪」
「正解と不正解」

「相対を持つもの」は

同じ性質を持ち、
相対すれば特異点を中心に2方向に分かれ、
相対しなければ、

「名付けられた意味」

そのものが無くなる。


表裏一体である。
一つ事象を中心とし、
全方位に相対する両方を性質を兼ね備える。


「結論は一つではなく、
      常に相対の二つである。」

「両相対が無ければ、完全には近づかない。」


このことから、
私自身も宇宙の構成と同じように
精神的思考においても脳の電気信号の中に
物理的法則の性質を持つと考えるのである。


人類もまた
「善と悪」・「正解と不正解」の
『相対』の空間座標の間に立ち、

どの方向へも成長する。


現在進行形の中にいる時、
自分では真っ直ぐか、曲がっているか、
ジグザグかを知ることは出来ない。


(+)の方向に成長し始めれば、
その方向に派生・成長していく。

(ー)の方向に成長し始めれば、
その方向に派生・成長していく。


一度その方向に歩き始めると
止まることができない。


なぜならば、
意識しない限り無意識であり、
自分自身の存在が求める・求められる場所に
いたいと思うからである。

それが正しいと信じているからである。


自分自身の今立っている場所がどこであるのか?


私にかかる、
「外からのプレッシャー」と
「内から発するプレッシャー」によって、

「私を中心とする全方位の相対要素」の
 どこの部分に強い相対を受け、


自分がそれに対するどんな相対をしているのか?


それを『ありのままの自分』(実在の自分)で
 
『過去の自分』(成功・失敗)
『未来の自分』(理想の自分)を認め、

同じ重なる一点として観ることができるか?できないか?で未来が大きく変わる。


一切の所属を無にし、自分の足で時空間に立ち、
自分の五感でものを観、自分で考える事。



「なぜ、自分と自分以外の生命の営みを奪ってはいけないか」

「私」は1つの「個」である。

しかし、「私」自身を観る時、「私」もまた「個」の集合である。


私の身体を電磁波・素粒子が取り囲み、
原子核・電子、元素。
染色体、細胞、細菌。
小さなもの達が臓器、筋肉を創っている。

私の個の中に様々な命がある。


それはまるで宇宙のようである。

私の意志とは関係なく、私の命、
それぞれの命の循環を止めないように、
活かし合い支えあっているのである。

そこには与え合う、
分け合う相互依存関係があり、


私は生かされている。(活かされている。)


また、
「個性」の持つ可能性は無限大であり、
その無限大の中の一つである「個」もまた

「唯一の個」

である。


「唯一の個」からこそ、
生み出せない「もの」がある。


たとえそれが論理的な方向の解釈で
あったとしても、


「一つの生命の営み」を任意で奪うことは、

「唯一の個」の全ての可能性奪うものであり、

「大きな命の営み」の循環の必要不可欠な

重要な要素となる「唯一の個」を
失わせることでもある。


また、それは相対的に「奪ったもの」に
必然として返ってくるものである。


相対とは鏡である。

「奪ったもの」のまた「奪われる」のである。


「自分の保身」とは、
奪うこと保有することによって、
「得られるもの」ではない。


「相対する相手の保身」を
「私」が認め、守ろうと見返りを求めず
相手に与え続けることによって、

「相手から返ってくる(与えられる)もの」

である。

祇園精舍の鐘の声、
諸行無常の響きあり。

娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらはす。

奢れる人も久しからず、
ただ春の夜の夢のごとし。

猛き者もつひにはほろびぬ、
ひとへに風の前の塵に同じ。

(平家物語祇園精舎より)


日本の古い歴史の物語の一節である。


盛者・奢れる人とは
人より飛び出た人ではなく、

「活かし・活かされ・生きること」を忘れ、

「嫉妬・妬み・他との比較」に溺れ、

個の欲に走った人、企業、国である。


全ては風の前の塵と同じで
儚く、夢・幻のようなもの、
無常であると。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?