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『本質・形・答えは自分の中から産むもの』

価値の本質は何処に?


「有限で不完全である生命の存在、
 本当の価値とは?」


私はあなたに2つの極論の質問を投げ掛ける。

1、もし、明日世界が終るとしたら、
  あなたは何をしたいと思うだろうか?

2、もし、唯一あなただけ永遠の存在となり、
  宇宙の全てのものを手に入れたならば、
  何をしたいと思うか?



1、の質問は、「私」にとって、
  一番大切なものは何かを
  気付かせてくれるものである。


「今」「生きて」「何かをすることができる」


それだけで本当は十分である。
束縛されるものは本当は無い。

家族、愛するもの、
自分が大切にしていること。




2、の質問は、「私」にかかる
束縛が全方向に一切無ければ、

「私」が本当になりたいもの、
 したいことは何であるかを
 気付かせてくれるものである。


「完全」とは「無」という1点である。
それ以上も以下も無い静止した状態である。


同時に「無限の可能性」を失うものである。


『有限で不完全である生命の存在』

つまり、命とはそれ以上も以下もない、

『無限の可能性の価値』である。


『本質』という『答え』のある場所

「私」は生まれた瞬間「無知」である。
何一つも知らない。生まれたばかりの子供は、
自分に一番近くにいるものを見様見真似で
真似をする。


そこに正解・不正解の性格を意識することなく。


時に転び、時に落ち、笑い、泣き、
駄々をこねながら。

行動することを先に学び、
音を聞き取り言語を覚え、


動作と言語が結び付き
より多くの知識と反応を覚えていく。


次第に様々な時期を様々な刺激の中過ごし、
物事をより深く考えるようになるのである。


「本質」という「答え」の
「場所」はどこにあるのか?


私は「花」の本質は何か?を考えたことがある。
しかし、そこに花が咲く要因は推測できるものの、
「本質」というものは見えてこない。


当然のことながら、
私は花と言語で話すことはできない。

しかしながら、太陽に向かって咲く花に
「本質」を感じるのである。


それは実際に花に聞いてみる事でしか
知ることはできない。



私の場合、同時に生きるとは何か?を

考えるきっかけでもあり、
そこから「極小の素粒子」、
「極大の宇宙」というものに
目を向けるようになった。


目の前の事柄の「相対」を「なぜ」で
追うようになったのである。

様々な思考の派生がある中で、
その中で変わらないものがある。


『特異点を中心とした
 全方位に対する相対』である。


その中にある『本質』を私の五感で
感じ取る。


電子顕微鏡で素粒子を
電子望遠鏡で銀河を

見つめ、証明の先に求めるのではなく、

もっと身近な普段の何気ない
日常の事実の中に「本質」を
観ることができる。


『本質』は「私自身」と「あなた」に

それぞれあるものであり、

「そのもの」の生き様である。


「本質」は壁に立てかけられて
固定され答えとして
置いてあるものではない。


自ら求めて観に行った先に、

「私の本質」の「相対」として
返ってくる「もの」が観える「もの」。


「本質」もまた固定されたものではなく、
「相対するもの」と共に変動し、
太く大きく「成長していく」ものである。


「本質は私の中にある」

「中道」

かつての釈迦の言葉に『中道』というものが
ある。私は『中道』に特異点を中心とする
相対を当てはめる。

50:50(特異点を中心として)。

それは平均や妥協ではない。

あくまでも変動の中での
「相対する『もの』の間」。

「安定の場所。」

無価値と価値の間。

無と存在の間。

アナログとデジタルの間。

無限と有限の間。

無思考と思考の間。


「無意識」が強くなっていくのであれば、
「意識」を強くしていく。

「デジタル」が強くなっていくのであれば、
「アナログ」を強めていく。


「私を中心とする全方位の相対要素」の真ん中。

広く浅いもの。深く狭いもの。


どちらかに偏った時、バランスを失う。

「外から生まれるもの」「内から生まれるもの」

その間に答えがある。


『自分を持ち』歩いていく。

それがあなたの心の本質・形・答えだよ。

宇宙でたった一つの存在として
発するあなたの個有振動数。

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