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『私という無名の宇宙』

「0」と「極無」とは何であるのか?


見えないものであるのか?
見えるものであるのか?


「0」は一般的に容量が何もない状態、
「空っぽ」の状態を指している。


また、始点を指し、抵抗のない安定を指す。
エネルギーが全く無い事を指している。


私の場合

「0」は

相対する二つの間に
存在すると捉えている。


色で例えるならば、
様々な色は3元色からできている。

そこに白色が加わり薄い色が生まれる。


色の種類は合わせられる3元色の
1点の強弱で変化する。

それは電磁波の周波数と同じであり、
個性をあらわす存在と同じである。


3元色を同量で混ぜれば黒色になり、
そこに白が混ざれば灰色になる。


空間の要素を付加し、
色を性質として考えてみる。

ビニール袋の中の空間が
灰色という性質を持っているとしよう。


ビニール袋に満たされた一方の
灰色の性質を(+)とするならば、

ビニール袋を裏返しにしたもう一方の
灰色の性質は(ー)となる。

ビニール袋を閉じている部分が「0」となる。


(+)の灰色と
(ー)の灰色を混ぜる時、
その色の性質は相殺となり、


色を完全に失い透明という
「極無」となるのである。


ヒッグス粒子のある世界は、
原子核が(+)であり、
電子が(ー)の世界である。


宇宙は「0」を中心とし、
(+)と(ー)が
行き交う世界である。


その質量の恩恵で
様々なサイズの階層の壁があり、

その壁によって
私は人間という物理存在を保っている。


私の考えでは
ブラックホールの向こう側の
入り口がホワイトホールであり、

向こう側は反ヒッグス粒子の世界である。


私のいるブラックホール側(物質世界)と
向こうのホワイトホール側(反物質世界)の

「2つの不完全」。


そして、間に位置する特異点「0」の
「一つの完全」。


その1:1:1が一つになる時、

極相殺され、「極無」となると考える。



つまり、宇宙は「極無」から生まれた。



宇宙の循環は2つの世界の循環である。

不完全であるがゆえにエネルギーの
相対運動が起きる。


世の中にある等式(=)で表現されるもの。

その関係は左辺と右辺の関係が
同じ1:1であり、
その関係性が示す意味は「0」である。


「不完全の右辺」と「不完全の左辺」
の相対の本質が

『「0」である完全』である。


等式を見出し、生み出した学者は「0」を
理解していたと私は考えるのである。


神羅万象全ての中心にあるのは

「0」である。

「極無」は全てである。


文明と知能が発展・発達すると
目に見える(+)と(ー)を
追いかけ注視し、依存を強めてしまう。


かつて理解していた
「0」と「極無」を意識から
忘却してしまうのである。


「0」と「極無」を理解できなければ、


『何を得て、何を失っているのか?』
『何を失い、何を得ているのか?』


その観点にたどり着けないのである。



宇宙と時間と相対


私は高等な数学の知識を使わないで、
「相対」という「もの」から、

空間座標というイメージで
わかりやすく宇宙を
理解出来るのではないかと考えた。

ビックバンというと特異点から生まれた
素粒子から拡大を続ける宇宙の先(果て)まで。


点、線、円、球体、空間座標、相対で捉える。


ビックバンの起こる前を考える時、
無を何もないともの考えると
その先に答えは出てこない。

「極無」であった。


私は一つの考察として、
「無」の極相対の全てあった場合を考えた。


空間ではなく1点(同じ一点の空間座標)に


「無限に派生していく元になった極めて

シンプルな原始要素。完全な相対が無相対で

重なっている。時空間が無い永遠。安定。」



『極1点原始全要素無相対特異点』が

 あったと考える。


私の考えでは「完全」というものは、


①ビックバンの起こる前の姿、もしくは
②宇宙全体をさらに後ろに下がって
 俯瞰で見た時の「点で観える全体」で
 あると考えるのである。


『極1点原始全要素無相対特異点』である日、


相対の存在に
   「気づいた、見つけた、欲した。」


一雫が水面に落ちたように、
たった一点から波紋のように現象が始動する。


1点が「絶対完全」を捨て、

2点の「不完全」になった瞬間。


「相対」がうまれた瞬間である。


それが一番最初の揺るぎを生み出し、
相対的な運動をし始め、
エネルギーの派生が相対的、
連続的連鎖が起こる。


相対を持たない唯1点であるがゆえに
その高密度のエネルギーが
逃げる場所を持たない。

やがて耐え切れなくなったエネルギーが
時空の壁に穴をあけ、

穴から有限性(+)の特性を持つものが流れ始め、
有限性(+)の空間を創り出した。


今まで点であった場所に逆位相に当たる、
無限性(-)の特性を持つ空間が生成される。


この不安定な状態に対して、

2つの空間(+)(-)の
エネルギー均衡のバランスを保つため、

『極1点原始全要素無相対特異点』は
相対を両方向に吐き出した後、
その間に位置する宇宙の特異点となった。


ホワイトホール側と
特異点と
ブラックホールである。


この後にブラックホール側で

生成された空間にヒッグス粒子が
生まれたと考えるのである。


極小の素粒子の世界から
極大の宇宙空間にいたるまで、

この相対関係で
大きさの違いを隔てる壁を持ち、
同じように次元が重なり合って成り立っている。

個が一つの完成形であり、
個の集合である全体が
また一つの個の完成形である。

極小のものほど歴史が古く、
よりシンプルで完全性が高い。


「私の考える宇宙の比」

シンプルである。

1(ホワイトホール側):
1(特異点):
1(ブラックホール側)


-∞/3:+-∞/3:+∞/3


φ:φ:φ


50:50(特異点を中心として)


なぜ、相対を持っていなかった点が
相対を持とうとしたのか?

そこに宇宙の意思があると
私は考えるのである。

まだ素粒子も原子核・電子も物質として
存在に至らない時に、
電磁点という見えない姿である。


「全ての要素を持ち、完全で永遠である存在」

にとって

「これから無限の可能性を持ち
 不完全で有限である存在」が

最も価値がある存在である。


その世界に会いたいと
思ったのでは無いだろうか?

私はそう想像するのである。


「物質世界・ブラックホール側の
 私の存在する世界」に対して、

特異点を挟んで、

「相対の世界・ホワイトホール側」


が存在すると考えるのである。


原子核にーの特性を持ち、
電子に+の特性を持つ逆相位の世界である。

また、変動する宇宙では、

進数もまた相対して変動すると考える。

数学は10進数である。
コンピュータの時間は昔は16進数であった。
地球時間は60進数と12進数の
組み合わせである。

電磁波の世界は?素粒子の世界は?

原子核と電子の世界は?
元素の世界は?
DNAの世界は?

宇宙では?

1つの事象では?
2つの事象の重なったときは?
3つの事象が重なったときは?

たとえ進数が変動し、
置かれる相対環境に変化があっても

変わらないものがある。

それが 「0」 である。


「0」をどう解釈するかが
世界の観え方を変えるのである。



「存在と消滅」「意識と無意識」の関係


私は確かにここに存在している。
私自身の身体を見る時、


前方180°の視野で私の身体の首から
下の前面を見ることができる。

もちろん鏡で見れば、
首より上部や自分の顔を見ることができる。

私自身が「私の存在」を
どうやって証明するのか?

ふと考える時、

・私自身が一人称の時は
 私の存在を観ることができない。

・私自身が二人称の時は
 私の存在を半体を観る事ができる。

・私自身が三人称の時は
 私の存在の全体を観る事ができる。

ことに気づくのである。


それはどういうことであるか?

私の手足と肉体は、物質として、

「電磁波、素粒子、原子核と電子、
元素、染色体、細胞、筋肉、目、脳、重力」

様々な二人称の相対関係による循環によって
安定の存在を与えられている。


自分の前方を見ることを
可能にしているのは、有形であるが故、

すでに三人称としての全体として、
既に自分自身の体を観ることが出来る
条件・状態だからである。


もし仮に
電磁波・素粒子・原子核と電子・重力の
相対的循環がなければ、
安定した有形としての
肉体を保持することはできない。

無限に広がる様々な事象は、

「一つの事象としての安定した状態を
 保持する為の括られる壁」が

無くなり、要素の混在した状態となるのである。


そのような一人称の状態では、
私は空間座標にとどまる固定点としての

「私の存在」を

認識することはできない。


つまり、
「私の存在」の条件は
二人称以上の相対によって、
初めて存在を確立出来るということである。

「私」は相対によって
「私」を認知する事ができる。


自我が生まれる瞬間である。
自我が生まれれば、比較が生まれる。
比較が生まれれば、
感情もまた生まれるのである。


『存在』

というものには


『相対』

が絶対条件になるということである。


電磁波・極最小の素粒子から
極最大の宇宙全体は『相対』そのものである。


それぞれの括りの壁・世界の相対が
事象の階層ごとに働き、
サイズの世界の安定と循環を守り、
その相対的自乗が大きい世界を創る。


また、歴史という積み重ねと
条件の進化がまた飛躍した新しい世界を創る。


私とあなたの間に相対としての関係が
ある場合とない場合、

私から観る「あなた」の見え方を例えるならば、

あなたが
もし火星に暮らしている事実があったとして、
火星から私に対して笑顔で手を振っている。


私はあなたの存在を既に知っていて、
あなたが火星の住人であり、
手を振っている事実を認知していれば、



あなたの存在は

私の意識の中に存在として成立する。



しかし、全く知らなければ、


あなたが存在する事実があったとしても、
私にとって無意識であり、


あなたが存在していない。

ことと同じ事になるのである。


意識と無意識

つまり、「存在」とは「意識」であり、
「消滅」とは「無意識」である。


更に深く思考するならば、

「存在と意識」
   と
「消滅と無意識」の間である、

『0』に双方が重なっている。


私は、初めて物を覚える時、
覚える物事に「意識を集中」し、
繰り返されるルーティンにより
身に着けることができる。


身に着けたものは脳に記憶として残り、
次に同じことをする時には、
「無意識」のままで再現できるのである。


立つ時、歩く時、ものを食べる時、
その行為自体を意識している人はいるだろうか?


アスリートはあえて意識する。


私が生まれてからこれまで
「何を学んできたか?」振り返る時、

全てに関して「相対現象の道」を学んできた
ことに気づくのである。

立つこと、歩くこと、ものを持つこと、
走ること。

重力という物理的にかかる力に
相対する自力である。


数の観念

私が習った数の数え方では0から始まり、
極小から極大へ数が移っていき、
無量大数が行き着く先である。


私の考える数字は、
極最大の無限の完全の次が0であり、
0の次が極最小の有限の不完全である。


次の階層への引き上がり(進数)と捉える。

また、逆相位では押し下がり(退数)である。



極最大の無限の完全と0の間で


終焉・消滅・分解・減少を迎え、


「0」をまたぎ、


0と極最小の有限の不完全の間で


誕生・存在・結合・増大が発生する。


つまり、

極最大の無限の完全と
極最小の有限の不完全の
真ん中にあるのは「0」であり、

極最大の無限の完全と
極最小の有限の不完全を加算すると

相殺の「0」になる。


「極無」である。


やはり、ビックバンが起きる前は
極無であったのである。


私はこの0を『0インパクト』と名付ける。

『0インパクト』は相対の間に
あるために見えない。

しかし、確実に存在する。
と私は考えるのである。


私が普段見る数字のーと+は
かかり合う力の相対関係の方向の性質を
表現するものである。

ーと+を存在とは捉えず、

0を中心とする偏り、

無色透明のキャンバスに塗る色だと
考えている。

つまり、数字とは
「0」以外の全ての事象であると
私は捉えている。


0から外に広がる力と0に縮まる力が
同時に存在しなければならない。

つまり、終わりと行き着く先が無い。

無限のチェーンのように繋がっている。


ーは+の逆相位の観え方となる。
=で結ばれる数式は全て「相対」を現している。

また、

その相対関係性は同力の相殺である0を示す。

全ての存在・消滅の中心に
あるのは「0」である。

0 = 私 = あなた = 愛 = 宇宙 = 極零

あなたがもし名前を持たなくとも

あなた自身を愛せたならば、

それは全てを愛せたことと同じである。

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