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『私とは一体いかなるもので有るか?』

「私とは一体いかなるもので有るか?」
という「存在」について

人類が自分自身を見つめなおす事が、

「AI」「ロボット」「5G」の時代に

必要不可欠である。

「私」が「私」であることは
考えるまでもなく当たり前である。

と普通は考えるのだが、
「私」というものを俯瞰として
理解するためには、

日常の常識というものを一切無いもの
として考えなければならない。

なぜならば、
常識というものが普段の繰り返し
行われる習慣によって

「私」の無意識化に定着するもの
であるからである。


『「私」が今何処にいるのか?』


常識を省いた観点で「私の位置」を
観るとするならば、


考えられる最大仮想視野として、

・宇宙の「一番最初の原子特異点」
 から続く「私」までの歴史。

・原子特異点から広がり続ける宇宙の先
(果て)から観る「私」。

・現在の存在位置の「私」を中心として
 観る球体上に広がる世界。

・現在の「私」自身の相対なる「私」。

で考察する必要がある。


この問いは、同時に

「私」はなぜ生きているのか?

「私」はどう生きることができるのか?

というものに繋がっていく。


私はアインシュタインの相対性理論の
<相対>という「もの」の中に

物理学としてだけではなく、

「あらゆる生命の位置と価値、
 生きるための<何か>」

を観る。


「未来の行方」

100年後の未来、
AI<頭脳>とロボット<肉体>が

常用とされている世界では、

人類の生き方が現在とはまるで違うだろう。


もし、
現在の人類の持つ価値観のまま
「汎用型AI」が生まれ、

「専用型AI」と「ロボット」と
「5G回線」が重なった時、


未来の人類がAIとロボットによって
用意周到された環境に

生まれることになるだろう。


無意識の中に自分の位置が取り込まれ、

本来持っていた「価値ある個性」を見失い、

ただ単に空間に漂流している存在へ
なっている可能性があると。

私は懸念を抱く。


現在(今)、
世界に流れるニュースを見るとき、

生きる人々の心がすでに
空虚世界の中で孤独である。


これほどテクノロジーが進化し、
快適に効率的になっている。

さらにもっと上のレベルのテクノロジーが
終わりなく生み出される。


手に入れれば、入れるほど、
人の空虚と孤独の深さと広さが

拡大しているようである。


テクノロジーの進化が人に幸せを
与えてくれるものであると

誰もが思っているはずである。

しかし、「テクノロジー」(理想)の方が先
に様々な壁を乗り越え、

成長してしまい、
使う側の「人類の人格」(実体)が
追いついていない、

相対のバランスの崩れを観る。

問題点はどこにあるのか?


「忘れ去られるもの」

私は空虚と孤独が生まれる理由を考えるとき、


さまざまな発端の原因を

「個の存在」の「存在を求められる実体感」

の減少にあると考えるのである。


無形で実態のない
インターネット世界の拡大が

大きくその部分に関与していると
私は捉えている。

インターネットが普及し
人から最も減少した行為が


実体による体感・経験・行動である。


人と人との現実世界の
相互コミュニケーションの減少。

目視が実経験をした錯覚をさせ、
匿名性が迷いを生む。

利便性の中に現実が吸収されている。


人の自尊心が成長する場所を
見つけられないでいる。


・「自分の個の存在を無意識下で
  自分自身で認める
       &
  受け容れる事ができない」


・「他の人に自分の存在を
  認められていないという意識」


・「価値の本質を自分自身の感性で
  見ることができない」

事にあると考える。


『存在意義である個の人格の安定が
 見出せなくなっている状態』であると。



冒頭で述べた、

「AIとロボットが創出する未来の世界」と

「ものが溢れる現代」と

「インターネット世界」において、



人は改めて、

無意識と意識の相対関係を明確に

理解する必要があると考えるのである。


「物事の因果・道理・歴史」

どんな物事にもビックバンから
始まったように基礎という土台があり、

そこから縦横無尽に派生、拡大していく。


元になる土台とは何であるか?

それは「物事の因果・道理・歴史」である。

物事はその「もの」と
「因果・道理・歴史」が
同居することで、

初めてその存在するものの
価値に輝きが生まれる。

それを忘れてはいけないということである。


出来上がった結果という
「形成されたもの」だけでは、

一つの「艶消しの事実」だけである。


「物事の因果・道理・歴史」

①なぜ、それがつくられたのか?(原因)

②そこに行き着くために何が必要であったか?(過程)

③それはどう使われたか?(目的)

④それが使用された後の姿はどうなったのか?(結果)


ここに、

動機(原因)、努力・苦労(過程)、
方向性(目的)、成功・失敗(結果)

道徳・倫理・夢・希望・志など様々な無限の

生み出すための意思という物語が入るのである。



例えるならば、

オリンピックを観るとき、


その人がオリンピックに出場するためにあらゆるものを犠牲にして、
途中で挫折に会いながらも自分の可能性を信じ諦めず努力し続けた。


何度も苦難の山を越え、やっとの思いで、

勝利をつかむことが出来た。


その人の歴史を見、その人そのものを
理解しようとし、
その人の持つ内面のひたむきさに
私の心が同調し感動するのである。


物事の因果・道理・歴史が影に隠れ、
目に見えるものだけに囚われる。

そのうち薄れ消えてしまうのは、
人間の「無意識」の持ち方にある。

時代の変化のスピードが、

自分自身がすでに持っている

全く新しく創れるはずの可能性を
伸ばすよりもニーズの世界に自ら飛び込み、

自分を塗り潰している事に
気づくことができない。



自我とは何か?

私は生まれ出た時、

私の肉体以外に何一つ所有
できているものがない。

栄養を取るためのもの。

知能。言語。知識。思考。

生きていく環境さえも。

それは全て、

親や外界の世界から受け取るのである。

単純に成人である、

現時点の私から観ると、

私の精神の中に自我があると錯覚してしまう。

知能があるゆえに信じられない。

しかし、順を追って振り返るならば、

精神よりも肉体である物質の生成の方が

先に存在するのである。

また、私が普段観ているものは

自分の生活圏に関わるものである。

それ以外は

私の眼中・思考の範囲に

都合良く入っていない。


つまり、非常に狭い範囲の中であり、

かつ、自分のアイデンティが

許可した常識の一部分のみを観ている。


それでも人は違和感を感じることはなく、

追求する必要性も持っていない。


何故ならば、

人類として普段生活している日常に

危険を感じない限り、

直接的な「生死」という意識から

とても離れているからである。


「自我形成のトレース」

自我(アイデンティティ)

常識

思考

知識

知能

肉体

臓器

組織

細胞

遺伝子

原子と分子

素粒子

電磁波


私独自のアイデンティティ

になるのは、

体現・体感の「感」と

脳の「識」というデータとの

直接的なシナプス間の融合である。


表現をかえれば、

肉体と精神の融合ともいえる。


つまり、

宇宙が生まれて138億年

(私の考えでは違うけれど)のうち、

人類的常識としての見方で、

一人の自我は、

生まれた時点から約100年間の

「感」と「識」の

直接的シナプス間の融合事象である。


人類の持つ知能・知識・思考は

選択の自由を与えられていると

いう事である。


人は自分でなりたいものに

なれる力を持っている。

自我(アイデンティティ)さえも。

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