見出し画像

朝食はエモーショナル

時々、朝ごはんをお腹いっぱい食べたくなる時がくる。そういう時はたいてい牛丼屋さんか立ち食い蕎麦屋さんに行く。この気持ちはパンでは満たせないので、必ずご飯か麺類のような、温かい食事が必要だ。

今日は少し足を伸ばして隣町のやよい軒に行くことにした。

注文するのは目玉焼きとウインナーのセット。席に着くなり、
「目玉焼きの両面焼きってできますか?」
と白身の中にぽってりと黄色い丸が浮かんだ幸せのフォルムをぶち壊す。あのドロリとした感じが嫌なのだ、嗜好に合わない。

土曜午前9時のやよい軒は、三軒茶屋のはぐれ者の巣窟だ。

この時間のやよい軒は空いている。ファミリーばかりの三軒茶屋という場所柄か、土曜の朝はアットホームな空気はなく、ひとりでひっそりと来ている客ばかりだ。これが渋谷や新宿なら、クラブ帰りの若者や、ホテルで十分に愛を交わし合った後の男女などで騒がしい。私には縁のない、向こう側の人たち。

そんなことを考えながら、隣の席に目をやると座っていたのは年配の女性だった。青いセーターの上に茶色いカーディガン、モスグリーンの帽子からは灰色の髪が覗いている。丸まった背中はどこかふっくらとしていて、だけど足取りは随分と重い。仕事柄、赤の他人にこの言葉を使うのは気が引けるのだけど、「おばあちゃん」という表現がぴったりの女性だった。

おばあちゃんは、ひとりで納豆の定食を食べている。

やよい軒はセルフサービスでご飯のおかわりができる。おばあちゃんは私が入店したとき炊飯器の前に立っていたからこのご飯は2杯目だ。いや、3杯目ということもあるのかもしれない。

そんなことを考えているうちに私の料理が運ばれた。
目玉焼きにソーセージが2本、キャベツのサラダと気持ちばかりの小さな冷奴。どの店でも焼き海苔はいつも袋ごと小皿に乗せられているけど、この小皿はどのように使うのが正解なんだろう。31歳になっても知らないことばかりで、世の中は本当に生きにくい。

朝ごはんをお腹いっぱい食べたくなっている私はたくさんご飯を食べる。
健康のことを考える故に申し訳程度に手始めにサラダを平らげ、そこからは好きな順番で好きなだけご飯を口に運ぶ。少しのおかずでたくさんご飯を食べるよう、漬物や海苔の全面的な協力を得て次々にご飯を食べていく。
普段はおかずとご飯がちょうど同じタイミングで無くなるように調整しながら食事をするのだけど(これに関して私は天才的に上手いと思っていたが、実は父親も同様の才能を持っていることを最近発見した)、おかわりを許された私は貪欲で、リールから放たれた犬が駆け回るようにご飯を食べる。

ふと、炊飯器の前に男性が立っているのに気づく。男性は身を屈めて随分長い時間そこにいる。しばらくして、意を決したように男性が歩き出す。そうして自分の席に戻ろうとしたとき、茶碗に山盛りにしたご飯が目に入る。とても大切そうに、そうっとご飯を運んでいる。その滑稽な姿は、不思議なことに胸を打つ。

男性が私の前を通りすぎるのを目で追っていると、おばあちゃんも男性を見つめていることに気づく。それと同時に、おばあちゃんも私が男性を見ていたことに気付いたようで、私たちは決まりが悪そうに笑い合う。それからすぐにそれぞれのお盆と向き合って、残りのご飯に取り掛かる。

1杯目のご飯を食べ終えて席を立つ。炊飯器の蓋を開けるとぶわっと湯気が立ち上り、炊きたてのご飯の香りが漂う。私は幸せだと思う。

席に戻ると、おばあちゃんは帰った後でそこには綺麗に平らげられた皿が並んでいた。

何故かはわからないけど、あのおばあちゃんが40年か50年くらい先の私だったらいいのに、という気持ちになった。未来の自分が今日の私に会いに来てくれたような、不思議な気持ちだった。
私はとても欲張りだから、おばあちゃんになっても月に一度か二度、こうしてご飯を思い切り食べたいと思った。エモいというのは正直、よくわからないけど、今の気持ちはエモーショナルだ。好きなときに、好きにことをすることほど幸せなことはない。

朝食を食べ終える。おばあちゃんと同じように私も綺麗に平らげる。
「ご馳走さま」と大きな声で挨拶をして外に出る。空は青く、一日は長い。あんなエモいおばあちゃんになるまであと何十年もかかるのか。

食べ過ぎた。また太るかもしれない。
満腹は心地よい罪悪感となって私を支配する。今日と明日は昼食抜きと固く誓って、私は自転車を漕ぎだした。

今日も一日は長い。

読んでいただきありがとうございます。まだまだ修行中ですが、感想など教えていただけると嬉しいです。