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仮通夜の喜劇

1月のあまり寒くない夜、祖父が亡くなった。
正月明けで斎場が混み合っている影響で、葬儀は亡くなってから一週間後。火葬はその前に済ませることになったのだが、その前夜に祖父の生家で仮通夜が行われた。

3歳の娘を連れて帰省したはいいものの、彼女が大人達の思い通りになるはずはなく、祭壇の前に横たわる祖父の亡骸をくすぐって起こそうと試みたり、熱を計るから体温計を持ってこいと大騒ぎしてみたりと暴君と化していた。親族だけの空間であれば空気が和みある程度は微笑ましく眺められたりもしたのだが、徐々に参列者が集まりだすとそういう訳にもいかず、お経が上げられている間、私たちは祖父が入院する直前に生活していた部屋でひっそりと過ごすことになった。そこには介護ベッドや痰の吸引機、移動するときにウロバッグを吊るすために使っていた点滴棒など様々な福祉用具があったのだが、状態が悪化し「もう家には帰れない」と主治医から宣告された時点で全て返却していたので、その跡形は見当たらず、中央にコタツ、棚の上に小さなテレビがあるだけの簡素な部屋に戻っていた。ただ、部屋の隅にある金属製のスツールに几帳面に並べられたアルコール綿や保湿剤達、数枚の開きオムツや夜用の少し大きいパットが、ひっそりと息を潜めながらも祖父が介護を受けるようになってからの生活の影を残していた。

祖父の部屋に追いやられた娘は今、大人しくタブレットで子供向け番組を眺めている。お守りの私は手持ち無沙汰なのでこの文章を書いている訳なのだけれど、葬儀というのは伊丹十三監督が映画の舞台にするくらいなのだから、悲劇でもあり喜劇にもなり得るのだとしみじみと思ってしまう。

仮通夜の準備中、娘は少しも大人しくせずにくるくると動き回って集まった親族の笑いを誘っていた。子どもというのは不思議なもので、それが結婚式であれ葬式であれ、その無邪気さと場にそぐわない存在故に時として主役よりも目立ってしまう。そのことに顔をしかめる大人もいれば、ちょうど今日の母のように「おじいちゃんが喜ぶね」と敢えてそれを望む者もいる。これが幼い頃の私と若い頃の母であれば、怒鳴られて頭のひとつでも叩かれていたことだろう。想像するとゾッとしたのでやめておいた。

祖父の介護で母は随分と苦労をした。同居する叔父家族にとってもそれは同じことであったのだが、長女という立場故に祖父の状態が悪くなるその時々で、気管切開、胃瘻の増設などいつも決断を迫られるのは母だった。だから、母と娘の宿命があるにも関わらずそういう母の姿を遠く離れた所から見ていることしかできなかった私としては、今日ここに彼女の愛しい孫でもある娘を連れてきたことで彼女の苦労を労えたような、そんな細やかな親孝行ができたのではないかと思いたくなってしまうのだった。

明日、祖父の身体は焼かれる。そのことを3歳の娘に説明しようとしたけれど、私自身の語彙力の無さから娘を怯えさせたり混乱させたりするのではないか、という恐怖が打ち勝ってしまい何もできないままでいる。

「大きいじいじの死んじゃうのはどうしたら治るの?」

無邪気に尋ねる彼女に、私は何が伝えられるのだろう。
理学療法士になって9年。人の死は幾度となく経験してきたのに、私は私が育てるべき娘に大切な人の死を説明することもできないのだ。

お経が終わり、広間が騒がしくなった。入れ替わり立ち替わり祖父の部屋に入ってくる親族が愛しそうに娘に声をかけてくれるのを、親として誇らしく思いながらも手伝いをするために重い腰を上げた。その時ふと、何か空気の変わる感覚がした。身体が金属製のスツールに当たり、カタンと音を立ててアルコール綿が落ちたのだ。やれやれと落ちたそれを拾いながら、祖父の仮通夜に喜劇の一面が訪れたのは、一重に娘の功績だけではなく祖父が十分に生きたという親族一同からの賞賛もあるのだろう、そんな考えが頭をよぎり、それもまた私を誇らしい気持ちにしたのだった。

読んでいただきありがとうございます。まだまだ修行中ですが、感想など教えていただけると嬉しいです。