真夜中の珈琲

乙武さんも落合陽一さんも、私の好きな著名人の方々が皆noteを始められているのを見て羨ましく思いました。

文章を書く練習がしたいので、ここで書いてみようかなと思います。私は私の気持ちを言葉にするのはそんなに大変じゃないんだけど、状況を描写するのはとても苦手。そんな所が上手くなったらなぁ、くらいの気持ちです。

なので今の状況をできるだけ叙情的に記します。



深夜2時。夫も子どもも寝静まった頃に、私はのっそりと起き出した。

誰もいないリビングへ移動する。冬だけどそんなに寒くないから暖房はつけずに厚手のパーカーを羽織ることにした。ダイニングテーブルの上にある書きかけた年賀状がこちらを見ているような気がして、居た堪れずに目を逸らす。年賀状は今年で終いに、なんて流行り言葉に乗せられたのがまずかったのだ。

昨夜は9時には布団に入った。子どもを寝かしつけながら自分が寝てしまう、というよくあるパターンだ。でもこんなに早く起きるくらいならもっと早く寝ておけばよかったと後味の悪い後悔にも苛まれてしまう。間違って男の人と寝てしまった時みたいに。

珈琲を淹れることにする。私は珈琲を狂気的と言っていいくらいに愛しているので当然1杯のためにミルで豆を挽く。誰もいない静まりかえった我が家に珈琲豆のすり減るきこきこという音が響く。空気を切り裂くというよりは、揺らすような心地よい音。

フィルターをセットし、挽きたての豆を移す。丁寧に、粉が残ることがないように。それは一種の強迫観念のように見える。ケチという訳ではなく、ミルの中に取り残された粉が哀れで、珈琲という素晴らしい液体に成り代わることのできないことがまるでこの世で最も悲しいことのように思えてしまうからだと思う。

湯を注ぐ時にもコツが要る。大切なのは、一度少量のお湯で粉を濡らして蒸らす作業だ。焙煎して日が浅い豆を使うと、この時に粉全体がぶわりと盛り上がり空気を閉じ込める。正直に言って原理はよくわからない。30秒ほどすると、ボコッという音を立てながら粉が沈む瞬間がある。そこが蒸らし完了の合図だと教えてくれたのは、学生時代にアルバイトをしていた喫茶店のお姉さんだった。子どものいない、裕福な夫とふたりで暮らしていた女性。20歳になって間もない頃は私もいつかああなるんだ、と思っていた。好きな人と好きなことをして暮らす生活に憧れた。肩が凝らなそうだと思ったのだ。赤ん坊みたいに無知だったのに、いつの間にこんな所へ来てしまったんだろう。

ゆっくりと3回に分けて湯を注ぎ、1杯の珈琲が出来上がる。これは数少ない自慢のひとつなんだけど、私が淹れると必ず美味しい珈琲が出来上がる。学生時代にアルバイトをしていた喫茶店は名古屋でも名の知れた老舗店で、お客様に提供するまでにオーナーの試験を受けないといけないくらいだったのだ。

31歳になった今、この珈琲を口にするのは夫くらいだ。たまに来訪したお客様に出すこともあるけれど、そもそも友達が少ないのでわざわざ珈琲を飲みに私の所に遊びに来るような関係の人間は居ない。

珈琲は不思議な飲み物だ。どんなに熱い珈琲を飲んでも(そもそもぬるいお湯で淹れる方が美味しいので火傷しそうに熱い珈琲というのは味が悪い)、彼らはあっという間に冷めてしまう。そしてあわよくば私の身体を冷やそうとしているようにさえ思えてしまう。妊婦に推奨されない飲み物であるのもよく分かる。真夜中のリビングで淹れたての珈琲を飲みながら、随分と遠い所へ来てしまった、と途方に暮れる気持ちになる。20歳の私に見せてあげたいと思う。そしてどこへ行くんだろうと、ゆらゆらと流れていくのがいいなと、呑気な思考に身体を委ねる。身体はどんどん冷えていくので、そろそろ暖房をつけようか。仮に子どもが起きていればそうはいかない。世界は彼女を中心に回っているのだ。風邪でもひかそうものなら私は打ち首だ。だからこんな風にひとりで迷う時間を与えてくれた真夜中の珈琲に、心から礼を述べたいと思いながら、私はエアコンのスイッチを入れるべく席を立ったのだった。


駄文だけど、なんか形になったので満足。



読んでいただきありがとうございます。まだまだ修行中ですが、感想など教えていただけると嬉しいです。