昔は引きこもってたよ

<前回の話>

今回で23回目となる「不登校の話」です。10回くらいで終わるだろうと思って始めましたが、筆の走りとともに増え続け、とうとう想定の2倍を超えてきました。

私の半生を、わりと包み隠さずに書いてきたので、果たして近々の事柄についてはどこまで書くべきか?切り上げ時はどのあたりか?などと考えながら、気付いたら現在地までたどり着いてしまった、というのが正直なところです。

まずは、ざっくりとですが振り返ってみます。


・なんとなく引きこもってなんとなく終わった

私の行動は、考えてみれば基本的に全部「なんとなく」です。中学受験に始まり、不登校、引きこもり、仕事、最近の転職事情に至るまで、「ひょっとしてこいつは、深く考えて行動を起こしたことが今まで一度も無いのでは!?」と、私自身でも思いました。

このことを私は、即断即決を好むスッキリとした「利点」なのだと、勝手に思い込んでいましたが、あらためて「重大な弱点」としての認識ができました。それがわかっただけでも、こうして半生を振り返ってきて良かったような気がしています。


・振り返ると病名がつきそうな時期もあった

読んでいて、そのように感じられた方もいらっしゃることと思います。あの当時に心療内科を受診していたら、私も何かしらの病名を頂戴していただろう、というタイミングはありました。

私が明確な病名を背負わなかったことは、なんとなくプラスだったようには捉えているのですが。こうした「たら・れば」は今更検証しようがないので、なんとも言えない部分です。例えば、早くから適切なカウンセリングを受けるなどして問題と向き合い、もっと上手く社会に進出できていた可能性も、一応あるでしょう。あくまで「そんなルートもあったのかも」と、楽しむ程度に留めておいています。

かつて「あり得た道」、アナザールートやパラレルワールドを考えるのは、ロマンがあります。しかし、どの世界の私も、どこかで一度は引きこもりを経験している気がします。現在の私を語る上で、引きこもりは欠かせない要素の一つであり、一度も引きこもらない私は、それはたぶん私じゃないでしょう。


・「べきレベル」と呼べるものの低さに気付いた


・スマホで書くのがとても向いていた

内容とは少々関係のない話になってしまいますが、今回書いてきたnoteは、全記事の大部分をスマホのクラウドメモで書いて、それをPCで最終チェックして更新していました。このやり方が、私には非常に向いていました。

私はブログの類を、本当に全然更新しません。最近では年1ペースでした。それを思うと、今回は3ヶ月で23本。二夜連続更新すらありました。それらを可能にしたのが「いつでもどこでも、時間がある時にサッと少しずつ書く」という、このやり方でした。

「わざわざキーボードで書かなくてもスマホで書いちゃえばいい」という、実に簡単なことに気付くことができたので、「不登校の話」は今回で終わりますが、今後も何かしら書いていきたい、書いていけるぞ〜という手応えを得ています。これは非常に大きな収穫でした。


※※※


遊びに行ったり飲みに行ったり、たくさん人と会うようになって「昔は引きこもってたよ」という話をすると、よく出てこれたね、よかったね、みたいなことを言ってもらえることがあるのですが、たしかに私自身でも「出られたのは何でだろうな?」というのは漠然と思っていました。

強いてそれらしい理由を一つ挙げるなら「自分の欲望を自分で尊重できたこと」があるかなとは思います。

引きこもっている最中は、どちらかといえば「自分の欲望を抑え込む方向の力」が、強く働きがちです。仮に何かをやりたい気持ちがあっても「どうせそんなことはできない」と、最初から諦めてしまうというか。必要以上に外に対して怯えて、閉じています。

幸いにして私は、あまり周囲からうるさく言われず、好き勝手に放っておいてもらえたので、警戒心の薄まりに比例して「もっとお金がほしいな、それでもっといろんなことがしたいな」と自然に思える日が来て、なんとなく出ていけました。それらの経過は、これまでに書いてきた通りです。

「引きこもり」と一口に言っても、人によってケースや環境はさまざまなので、「○○すれば出られる」「○○しておけば引きこもらずに済む」みたいな万能の処方箋は、おそらく存在しないでしょう。そもそも引きこもること自体、べつに悪いことでもなんでもないです。単に「そういう時期」なんで。もし身の回りにいらしたら、できるだけ本人の感情を尊重してあげてほしいと思います。

とは言っても、一旦引きこもってしまうと、本人としては社会からも周囲からも距離が離れてしまい、まるで全員から否定されているような気分にも陥ります。一体どうしてこんなことになってしまったのかと自分自身をも攻めたところで、最終的には、自分で自分を肯定してやらないことには始まらない。誰の助けもないと感じられるとき、最後に肯定してやれるのは自分だけです。

「引きこもる」という、今まで過ごしてきた流れに反した行動を取れる時点で、そこにはコブのように生えている、もともと持っている強い「自我」があります。自らがつまづいてしまったコブを無かったことにせず、面倒な自我を認識し、向かい合い、コブを視野に入れた自身の操縦方法を学んでいくことが、私には欠かせないプロセスとしてありました。

「自我を愛していく」

私にとって引きこもりとは、そのための期間であったように捉えています。

結果として、自我があったから引きこもったし、自我があったから引きこもりから脱せられたのではないか、というイメージです。

それではまた。


<おわり>

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