コンビニの棚

<前回の話>

一度も通っていない、二つ目の中学校の卒業証書をフワッともらいました。筒に入った紙がやってきて、特別なことは何も感じませんでしたが、もしこれから私が罪などを犯した場合は、「無職」という肩書きで報道されるんだ、ということは理解しました。

不登校の人たちが使うフリースクールなどの仕組みは、当時もすでにあって、おそらく知ってはいましたが、近くにないとか、基本的に誰とも関わりたくないとか、そんなような理由で勧められても拒んでいた気がします。

本当に、ただ家にいて、勉強もせず、動物の世話をしたりゲームをしたりして、気が付いたら3年近くが経っていたような感じでした。

外へは出るような、出ないような。犬の散歩には行きます。しかし家族以外との交流は、インターネット以外では一切存在しなかったことから、あれは立派な引きこもりでした。

ある日コンビニへ行くと、何だか棚が低くなっていて違和感を持ったことをよく覚えています。かつて「バウムクーヘンのチョコレートソースがけ」を食べていた頃から、体重はあまり変動していなかったのですが、身長が20cm以上伸びていました。コンビニの棚が低くなったのではなく、私が大きくなっていたんですね。

声を出さない期間が長かったため、いつごろ声変わりしたのかもまったく記憶に無いのですが、おそらくこのあたりだと思います。そもそも変わる前の自分の声がどんな声で、どのように変化したのか、今でもよくわかりません。(お会いしたことのある方ならわかると思いますが、現在もだいぶ声が高いので、そこまで大きく変わってはいない気もします)

中学を出てからしばらく経ったあたりでは、スポーツジムに通っていました。背も伸び、体力的にも非常に持て余していたため、何とか少しでも疲れたい一心で行かせてもらいました。ただし、人との関わりが発生しないよう、朝一番に、視力が悪いのにわざと裸眼で行って、各種マシンとにらめっこだけしながら、黙々とやる感じでした。人が増えてくる前には引き上げて、家で「笑っていいとも」を見ていました。

当時の私は、「起きて」「寝る」しか決まってやることがない日々で、有り余る膨大な体力を消費することに苦心していました。外に出ればいいじゃないかと今なら当たり前のように考えますが、同世代の人間がいるような時間帯にはできるだけ外出せずに日々を終わらせたい、できるだけ社会と関わりたくないという気持ちのほうが重要でした。スポーツジム以外にも、中学を卒業したことで出現していた様々な選択肢や可能性があったはずですが、そういうことはあまり考えないようにしていました。とてもじゃないけれど、自分がいる現実をまだまだ直視できないくらいには、私は物凄く「まとも」でした。

閉塞した日々での転機となったのは「来年3月にプレイステーション2が出る」というニュースを聞いたときです。

私のゲーム遍歴を振り返ると、(その後ワープロをくれることになる)一回りほど年上の従兄弟がファミコン本体をくれた、5歳の地点から始まります。あとは順当に、スーパーファミコン、各種ゲームボーイシリーズ、セガのハードなどを一通りかじりながら、プレイステーションに落ち着いていきます。ゲームの劇的な進化とともに成長をした世代ですので、私の周りを見ても、このような経過を送った子どもは、ごくありふれたものでした。

たとえば、小学生の頃に出た最初のポケモン「赤・緑」の発売前には、それぞれのソフトで微妙に異なるポケモンが出ることを「ファミ通」などを読んで全員が把握していましたので、友人たち5~6人で協議し、誰が赤を買って誰が緑を買うかを、事前に分担するなどしていました。ちなみに私は「緑」の班でした。

という感じで生きてきたので、メジャーなハードが新しく出るときは、買うことを必ず検討する。絶対に遊べるように、できれば発売日に遊べるように、手を尽くす。私は5歳以来、そんなことをずっと続けてきました。なんとなく中学受験をして、なんとなく不登校になるまで、ずっと、そういう人生でした。

そして今度は、「プレイステーション2」が出るのだといいます。買わなければならない。あくまで長年のゲーム習慣に由来するものではありますが、義務感や使命感のようなものを帯びてすらいました。

そういえば私は、もうアルバイトができる年齢でした。プレイステーション2の発売時の定価は、39,800円。本体と同時発売のタイトルを2本買うとしたら、5万円以上は必要です。発売までに何とかしなくては。そう思っていたところ、年末年始に年賀状配達のアルバイトがあると聞き、あまり深く考えずにやることにしました。すべては金のため。すべては金のためです。

<次の話>

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