家族の宗教の話をします

<前回の話>

我が家には昔から小さな祭壇があり、朝と晩に、母がお祈りしていました。幼い頃からそれは自然な光景だったのですが、成長していくうちに「どうやらこれは他の家ではやっていない行為らしい」ということに、段々と気付いていきます。

生まれた時から、母と月に一度くらい「参拝」に出かけるのが恒例行事となっていました。そこでは、母の顔馴染みらしき、通称・田中のおばちゃん(仮名)に私たち兄妹を見てもらっている間、母は一人でどこかへ行って、何らかの用事を済ませて帰ってくる、というのがパターンでした。

電車に乗ってちょっと遠くへ行ける上、帰りは大抵どこかで外食をするので、幼い私はわりと「参拝」が楽しみでした。

小学校低学年の頃だったでしょうか、クラスメートに「土曜日は参拝に行ってきたんだよ!」みたいな話をしたとき、その場にいた全員の頭に「?」が浮かんだのが忘れられません。

そうした経験が重なっていった末、認識が決定的となったのは、私が小学生の頃に世間を騒がせた「オウム真理教」の事件です。連日のように繰り広げられていた報道を見て育ったおかげで、不必要なまでに宗教に(特に新興宗教に対して)悪しきイメージを持ってしまっているなぁと、今でも感じることがあるほどです。

かくして、小さな私の宗教観は、自然と一定の方向を得ていきました。

それは「嫌悪」でした。

小学校高学年くらいからは、私の予定があるなどして「参拝」に着いて行くことも減っていき、何なら自ら断って留守番をしたり、あえて友達と遊ぶようにすることが増えました。あの空間へ行くことが、なんとなくイヤになっていきました。いつしか、私とは全然関係のない場所だと感じるようになりました。

やがて思春期を迎えて、何かと尖ってくると、家に祭壇があることすら、なんとなくイヤに思えてきます。ましてや不登校になり、いつも家にいるので「あの祭壇をいつか何とかできないかな」と考えていました。

祭壇は、幼い頃から「触ってはならない場所」として、比較的ゆるい我が家のルールの中では突出して厳しい設定でしたので、勝手に撤去したり破壊したりすることを想像はできても、恐ろしい結果しか招かないことはわかっていました。

「(なんかイヤなんで)なんとかなりませんか?」と母にやんわり訴えたこともありましたが、それだけでも即座に強烈な怒りを買いましたので、そういうのはすぐにやめました。いま考えると、母に対して大変失礼なことをしていましたね。

これは、しばらく不登校を続けていく中で自然と思ったことなんですが。「よそはよそ、うちはうち」という、駄々をこねるたび耳にタコができるくらい浴びせられてきた言葉が、ここへ来て「自分のあるべき姿」として溶け込んできている感覚がありました。

「人は人、自分は自分」と言い換えてもいいでしょう。

正規のルートを完全に外れてしまっている私自身を肯定することができて、同時に慰められるような言葉でした。

さまざまな宗教の悪いイメージに引っ張られてしまってはいますが、結局「人は人、自分は自分」でしかなく、この宗教は母のものであり、私とは何も関係がない。私の領域を侵犯してこない限りは、べつに何も気にしなくていいのではないか。次第にそう考えられるようになりました。

現に、母は「参拝」へ幼い私たちを連れて行くことはあっても、「一緒にお祈りしようか?」などと私たちを誘ったり、仲間に入れようとするような態度や言動を、一度もしたことがありませんでした。母自身がやりたいことをやるために、まだ幼かった私たちを連れてきていただけであり、その「やりたかったこと」が、たまたま「信仰」であったという話です。

また母にとっては、こうした「大きな心の支え」があったからこそ、前回までに書いてきたような数々の局面においても落ち着いて振る舞ってくれて、私たち家族の安定に寄与していたのではないかと思えることが本当にたくさん思い当たりました。間接的には、母の神様のおかげで、私も恩恵に預かっていたと言える部分が確実に存在するはずです。

「宗教は必要な場合もあるのかもしれない」

身近な事実を整理していったら、素直に納得できました。もし今後、母以外のケースに遭遇したとしても、その信仰対象が何であれ、その人の大事なものをなるべく尊重していこうと思いました。この考え方は今も変わりません。

不登校+引きこもりの膨大な時間を使い、子どもの頃から感じていたモヤモヤを言語化して晴らすことができた、一つの好例でした。

最後にもう一つ。過去に一度だけ、父も一緒に「参拝」へ行ったことがありました。父は私と同じ「自分が神様」タイプなので、まったくそういう気はありませんが、後年聞いたところによると「怖いもの見たさでちょっと行ってみた」とのことでした。

すると、普段は30分とかで帰ってくるところが、2時間も3時間も両親が帰ってこない。田中のおばちゃんと、信じられないほど長く待っていたのを覚えています。施設のある白い建物が、白昼の日光を反射してひたすらに眩しかった記憶があります。

この時の話を、大人になってお酒を飲みながら父と話す機会がありました。父によると、向こうは決して無理強いはしないながらも、しかし延々と、メチャクチャに説得し続けてきたそうです。ヘラヘラしながら受け流し続けたであろう父の姿が、ハッキリと目に浮かびました。私たちが寿司屋で爆笑しながらそんな話をできたのは、この出来事の20年以上も後でした。

<次の話>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?