もう音は鳴らない【sideサラギ・ミィレン】

■お借りしました:イチカちゃん、ダヴィドさん

※殆どは過去の話です。

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 昔の話だ。アイドルとして活動するイチカの代わりに共演者への挨拶をしていた時のこと。隠れるように俺の後ろにいるイチカはいつものこと。俺は愛想笑いを浮かべて歯の浮くような懇切丁寧な言葉を並べ続ける。
 礼儀だとか教養だとか、叩き込まれたくだらないものはこういう上辺だけのやり取りをする時には酷く便利だ。だから、くだらない。こんな上部だけのもので人生というものはうまくいってしまうのだから。

「お会いできて光栄です。此度はどうかよろしくお願いします」
「ええ、とても嬉しいわ。ところで……天使の歌声の女の子はそちら?」
「ええ。何分恥ずかしがり屋でして。私が挨拶を代わりに務めているのです。失礼をお許しください」

 誰が見ても美しいと思えるような笑顔を浮かべた女優は俺の後ろに隠れているイチカの顔を覗き込むように身を屈めた。かと思うとヒールを鳴らして俺の横に並んで、しゃがみこむと俯いていたイチカの顔を覗き込む。

「こんにちは。可愛い可愛いお嬢さん。私ね、今回お仕事で御一緒させて頂くミィレンというの。よかったらお話しさせてもらえないかしら」

 勿論嫌だったらいいの。と微笑んで女は腕に抱いていたリーシャンと共にイチカへと手を差し出した。


***


 ミィレン・ジンズという女優が舞台から降りたのは本当に突然の事だった。彼女は理由も何も明確にせずに、女優引退、芸能界からの撤退を表明した。
 人気絶頂だった彼女がどうして急に、とマスコミは煩く騒ぎ立てていて、それが酷く耳障りだった。その煩さが彼女に懐いてしまっていたイチカの耳にも入り、彼女が滅入る理由にも繋がったからだ。
 ミィレンは俺から見てもやさしい女だった。芸能人にしては珍しく偽ることの無い裏表のない人間で、面倒見がよく華やかな人だった。そんな彼女は人見知りなイチカにもやさしく声をかけ続けていたし、よくしてくれていた。
 イチカが嫌がらないなら俺が何か言う必要もなく、人見知りにも仲のいい女友達が出来たのならそれはそれで好ましいことだ。流石にそこまで心は狭くない。
 けれど、あの女は何も言わずに姿を消した。それがイチカを傷付けた。それだけが俺の苛立ちに繋がった。

「……サラギ」
「何ですか、ラズベリー」

 移動の最中声をかけられ、立ち止まって彼女の方を向いた。街中のテレビから聞こえてくるミィレンの引退のニュースの内容が酷く耳障りだ。そのニュースの内容に落ち込んだ様子を見せるイチカの様子に、余計に。

「……サラギはいなくなったら駄目だからね」
「……私以外に誰が貴女みたいな手のかかる子の面倒を見れると?」

 溜息をつきながら、イチカの額を指で弾く。それに彼女が小さく呻き余計な一言が多いと文句を告げてきたので置いていきますよ、と歩く速さを少しばかり早めた。


***


 フードを目深に被ってただ走った。愛していた仕事も、住んでいた部屋も、大切にしていた何もかもを捨てて、ただ走る。誰にも知られないうちに、誰にも気付かれないうちに。残した書置きだけが明日になったら全てを白日の元に晒す。
 顔がよく見えない夜のうちがチャンスなのだ。急がなければいけない。けれども無理をしてもいけない。けれど、早く消えなければいけない。

「あ、」

 ぱきりとヒールが折れる音がする。同時転びかけた私の身体をベイシャンとホアンシーが支えてくれて、私はほっと安堵の息をついて、視界に涙が滲んだ。
 滲んだ視界に移った折れたヒールは、靴は、あの男から貰ったものだった。無意識のうちにそれをはいてきていたことが悔しくて苦しくて憎くてたまらない。
 靴を脱いで、適当なところに投げ捨てた。裸足にはなってしまったが、あんなものをはき続けるよりよっぽどいい。
 くだらない夢の時間は終わった。全て、全て、偽りの幸福の想い出なんて捨てていこう。


***


「減ったよね」
「は?」
「泣く頻度。昔はあんなにすぐ泣いてくれたのに」
「今すぐその口にヒールを捩じ込んで黙らせてやりたいわ」

 くすくすと愉しそうに笑うその男にやはり嫌悪と憎悪しか生まれない。土まみれとなったヒールを喉元まで本当に突きつけてやろうかと睨み付ければ、私のそんな反応すらも愉しいのか男は笑う。

「なぁ、ミィ。俺があげた靴、どうしたんだい?」

 いやなことばかり記憶力のいい男だと思う。他者を貶め辱め甚振ることにだけ特化されたものに違いない脳へ侮蔑の意味での賞賛を送り、視線を逸らす。

「あんな汚れた靴、とっくの昔に捨てたわ」

 積み上げてきた大切な全てと、何もかもとともに。
 

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