現の名乗り【sideミィレン】

こちらの流れをお借りしています。

■お借りしました:サーシャくん、ティアナさん
 
 
------------------------------------------------------------
 
 
 ”ミィレン・ジンズ”
 
 その名は、呪いだ。孤児だった自らに与えられた大切な名前であって、消し去ってしまいたい過去の苦痛と恐怖が煮詰まった、忌避したい名前。
 口にすることが恐ろしい。口にすることが恨めしい。口にすることが哀しい。私はその名を使うことも、呼ばれることも苦しくて耐えられくなってしまったのだから。
 
 逃げた。男に受けた傷に、更に塩を塗り込んでくるマネージャーから。芸能界の引退を許さないと私の腕を掴んで間違いのない私情を挟み込んできた人間から。怖かったのだ。守るといいながらも、丸め込もうとしているのがあけすけに覗いたその瞳が。
 死に物狂いで自分のあった世界を全て捨てて、私は私のことを誰も知らない土地まで逃げた。辛かった。知れ渡り過ぎた顔が指摘をされることも、こそこそと噂話をされることも、言い寄ってこられることも。
 
 だから私は名前も顔も、全て捨てた。
 
 逃げて逃げて逃げ続けて、とんだお節介の家に保護された。その地方の人間にしては珍しいジョウトの方言を話す老人は、私が名前を名乗ることが怖いから嫌だと告げれば、なら変えてしまえばいいとあっけらかんと言いのけた。
 自分も名前を変えている。嫌なものなら大切なものであろうとも変えてしまえばいいと。嫌いになっても、変えたとしても、大切なものであった事実に変わりはないのだからと。
 
 
***
 
 
 賢すぎる子だと思っていた。その幼さにしては、言葉も仕草も整えられすぎていて子どもらしさには違和感を感じる。けれども私の目線からは彼は子どもに違いない。何の教育を受けてきたかは定かではないが、まだ目の前の彼は子どもなのだ。
 
 自分に似ていた人、という言葉で浮かんだのは昼の姿だ。自分が望んで生み出した虚像。夢の姿。全てを失った私の代わりに、夢を見る存在。そんなことをして何になるのだと呆れられても仕方がないが、私は苦痛で終わった時代を取り戻したかったのだろう。最も、その昼の姿の記憶も今の私には共有されていない。
 まるで、夢の時間は終わったのだとでも言わんばかりに。
 彼は昼の姿の私に出会ったのだろうか。昼の姿の私は彼に何を言ったのだろうか。様々な思考が脳内を駆け巡っては、____わからないのだから、考えても仕方がないと結論付ける。
 
 私は立ち止まって、しゃがみこんで少年の顔を覗き込んだ。ティアナ、と呼ばれたその子は相も変わらず周囲を緩く飛び回っている。視線を感じたことは確かだ。けれども、咎めるまではいかない。というか、少年が咎めたのだからこの子はしっかりしているな、とやはりしみじみしてしまっていた。
 もしくは。そういった不躾な視線を受けることへの理解があるからか。
 
「ハーディっていうの。大切な人からもらった名前よ」
「大切な人から?」
 
 それは親から授かったものではないのだろうかといった意味が含まれているような問いかけに、私は微笑んだ。
 
「おねえさんね、名前をなくしちゃったの」
 
 真実ではないが、完全な偽りという訳ではない。自らが名乗るには、呼ばれるには苦痛すぎるそれは自らの心を守るために捨て置いてきたのだから。
 疑問の色が翡翠の瞳に一瞬過ぎる。けれどもそれを純粋に聞いてこないのは、きっとこの子が年齢の割には大人すぎて思慮深いからだろう。覗く配慮か計算か、それはまあ、どちらでもいいのだが。それに、もしかしたら似た環境で育ったのかもしれないな、なんてことを思う。
 
「穏やかな心であれますようにって。そういった意味が含まれてるんですって」
 
 快活な老人は悩む私にじゃあ俺が決めてやると、私を以降そう呼ぶようになった。自らの本来の名の響きとは全く違うそれは最初は不思議で慣れなくて、けれどもあの家の人たちに呼ばれるものとしてはすっかり馴染んでしまった。
 それでも大切な名前だからこそ、また、自分の素性を明かしたくないからこそ私は滅多にこの名前すらも名乗らない。それを名乗ったのは、目の前の子の期待を裏切りたくないと思ったが故かもしれないし、ただの気紛れかもしれない。
 ああ、でも一番の理由はこれかもしれない。
 
「お礼も嬉しいけれど、あなたのお名前を教えてくれると嬉しいわ」
 
 人に名を聞くには、自分からという文句もある。それに、どうしてかこの子の名前が知りたくて仕方がなかったのだ。
 
 
 
 それが昼の姿の私が望んだことだなんて知らずとも、結局のところ夢も現も、私に他ならないのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?