江戸の増税メガネ 百姓を恐喝する

 享保7年(1722)、8代将軍徳川吉宗は、「定免法」、「有毛検見法」と並び増税3本柱を構成する「三分の一銀米納法」を発令しました。

三分の一金銀納の分、米納につかまつるべきむねたっす。

1 三分の一銀納法
 これは主として西日本の幕領で行われていた徴税法です。石高制の江戸時代は、米作、畑作、棟別すべてを米に換算して、米で納めるのが原則でした。しかし米をつくらない畑や屋敷地分の年貢までも米で納めることには、やはり無理があり、銀で納めることが一般化していきました。特に農業先進地の西国では石高の1/3を銀で納めたことから「三分の一銀納法」と呼ばれています。

2 嫌がらせを止めてほしければ金を出せ
 この銀を「本来の米で納付せよ」というのが法令の趣旨ですが、その意図は別のところにありました。
 これまでは畑でつくった作物を換銀してそれを年貢として納付していました。それを米で納めるとなると、畑作物→(売却)→銀→(購入)→米という経路になります。しかも、石高通りに納めればよいというわけではありません。輸送中の落下、濡れなどを見越して、概ね4~8%を余分に納める必要がありました。(欠米(かけまい)と言います)
 これを見越して法令は続けています。(以下、意訳)

米納にすると百姓たちは経費が多くかかり困るだろう。もし、これまで通り銀納にしてもらいたいという申し出があっても、一旦は断ること。どうしても銀で納付させてほしいという申し出があった場合は、換算相場をできる限りつり上げ、これ以上は無理だという数字を百姓が出してきたら勘定所の許可を取ること

 内部文書とは言え、ここまであけすけな表現も珍しいと思います。しかも、参考資料として国ごとに目標の換算相場を示して、代官たちに営業目標達成を競わせました。(まるで〇〇〇モーター)

3 増税のためなら何でもした結末
 ここまでくると、もはや、徴税と言うより恐喝です。私はほとんど読んだことがありませんが、闇金ウシジマ君にならこんな話があるのでしょうか。
あまりの非法に江戸へ直訴して村役人が片端から入牢した村もありました。田畑を質入れせざるを得ず、本百姓から転落した農民も多くいたでしょう。
 この増税策によって実際にどの程度の税収増があったかはわかりませんが、増税3本柱で吉宗はおおむね2割程度の年貢増徴に成功しています。 しかし、世の中うまい話ばかりではありません。9代家重は江戸の増税メガネの負の遺産と格闘することになります。(小便公方 銘酒を産む