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くちづけ


デビュー作ではなく、処女作と呼びたい。大映映画『くちづけ』(1957年公開)は、増村保造監督の処女作である。

処女作の場合、いきなり傑作が生まれるか、習作にとどまるかのどちらかであるが、この作品の場合は習作にとどまったようだ。

川口浩の父親は選挙違反で検挙され、小菅拘置所に収監されていた。野添ひとみの父親は公務員であったが、公金を横領し、やはり小菅拘置所に収監されていた。

そこに面会にきた川口、野添の二人はひょんなことから知り合い、競輪場にやってきて当たったら野添の言うように、一日二人で過ごす、外れれば川口の言うように、そのまま別れるということにした。

結果。二人が予想した選手が一着になり、二人は思いがけない金を手に入れ、その金で一日遊ぼうということになった。

二人は食堂でご馳走を食べ、今ならLINEの交換で済ますところを、紙のナフキンに互いの住所と名前を書いて交換した。

川口浩は友人のバイク、自動車修理工場のせがれに頼んで、バイクを一台借り、その後ろに野添を乗せると疾走を始めた。

だが、このバイクのシーンに疾走感がない。今まで見てきた増村保造の作品には、ある特殊とも言えるテンポ、リズムがあって見る者を、その映像世界に引き込んでしまう力があった。

同じ年に増村保造が監督し、若尾文子が主演した『青空娘』には、それがあったから、『くちづけ』における増村はまだ本領を発揮していないというところだろうか。全体にオーソドックスに撮っているという印象を受ける。

この作品は増村の処女作と同時に、川口家の人々による映画だという側面が強いだろう。まず主演に川口浩。その母役の三益愛子は川口の実母である。さらに原作の川口松太郎は浩の実父。ヒロインの野添ひとみは、のち浩夫人となった人である。

この頃、川口松太郎は大映のお偉いさんであり、その父に頼み込んで、浩は野添を大映に入れてもらったらしい。

大映倒産後、川口浩が「水曜スペシャル」にて、探検隊への道を突き進んだことは言うまでもないだろう。

江ノ島、片瀬海岸にやってきた二人は、照りつける太陽の下、海で戯れた。また水着のままローラースケートを楽しんで、バヤリースを飲んだりもした。

この水着を着けたままローラースケートを楽しむというのが、2020年代の感覚からするとかなり分からないのであるが、とにかく二人はそれを楽しみ、彼らの距離は急速に近くなっていった。

だが、バヤリースを飲んでいる時に川口浩は、三益愛子の姿を目撃した。野添にはビーチハウスで待っていてくれと言って、車から降りてきた三益愛子の元へと行った。

「母さん。僕に十万円を貸してくれないかな。十万があれば、父さんを保釈させてあげられるんだよ」
「ばか言っちゃいけないよ。そりゃわたしは、お前はかわいいよ。でも、あの人にはもう愛のかけらも残っちゃいないんだからね」

にべもなくそう言われた川口は退散するしかなかったが、三益愛子は外車を乗り回し、女だてらに商売を切り盛りする女傑であった。川口はその車のナンバーを例のナフキンに控えた。

50年代の若者文化は急速にアメリカンナイズされたものであったようだ。当時の流行歌の多くがアメリカンポップスに日本語の歌詞を乗せたものであったし、ファッションにしてもアメリカの模倣であった。

その50年代の片瀬の夜。ジャズのスイングが小気味よく場の雰囲気を染めるビーチハウスで、川口は野添の腰に手を当て、野添は川口の肩に手を当てて踊っていた。演奏が終わると川口はハイボールを飲みながらピアノに座った。

「あなた。ピアノ弾けるの」
「真似事ならね」
「じゃあ。これをお願い」

そう言って野添は川口に譜面を差し出した。川口の伴奏に合わせて歌う野添。その歌声が止んだ時、いやにがたいが良くてメキシコ人が被る帽子みたいなのを被ったヤツが冷やかしにチャチャを入れてきた。

「なんだあ。この野郎。ケンカ売っているのか」
「やめなさいよ。相手が悪いわ」

川口と野添は場所を変えて、飲み直すことにした。そこは三ツ矢サイダーの提灯がぶら下がっている模擬店のような店であったが、そこで川口はグラスにビールを勢いよくつぐと、飲み始めた。

「なんだよ。さっきのヤツ。頭にきちゃうなあ」
「有名な画家のドラ息子なのよ。わたし、モデルクラブに所属していて、その先生のところでもモデルをしているの」
「どうりでスタイルはいいと思っていたんだよ」

二人は互いに拘置所に面会に来ていた訳を話し、お互いに十万円があれば、親を釈放してやれるということを話した。もし、このドラマに増村的なものがあるとすれば、親のせいで苦悩している若者を描いているにも関わらず、そこに変な暗さがないと言うことだろうか。

「ねえ。わたしのこと好き」
「なんだよ。急に」
「どうなの。わたしのことが好きなの」
「だから女の子は嫌いだよ。すぐに好きとか嫌いだとか言うからさ。もうそろそろ帰ろうぜ。俺、明日の朝までには、バイクを返さなきゃいけないんだ」
「わたし帰らない」
「無茶言うぜ。ここから東京までどうやって帰るんだい」
「好きなのかどうなのか、はっきりしてくれなきゃ帰らないわ」
「勝手にしろよ。また小菅で会おうぜ」

そう言うと川口はバイクで走り去ってしまった。

この野添が演じる積極的な彼女も57年の邦画の中では、異色のキャラであったのだろうか。今でも恋愛ドラマでは良くあるパターンとして、好きと言い出せぬまますれ違ってしまう男女などがあるが、ここでの野添は自分の本心に忠実であり、そこにも増村的な女性描写の芽生えを感じる。

次のシーン。野添がどのようにして東京まで帰ったのか分からないが、そこには療養所にいる母を見舞う彼女の姿があった。だが彼女は婦長に呼ばれて、父が保険料を払っていないので、母の療養代は自己負担になってしまうと言われてしまった。

「最近、お父さんはお見舞いに来てくれないねえ」
「ここのところ忙しいのよ。次はきっと一緒に来るからね」

母の前では苦労をおくびにも出さない野添であった。

一方の川口はタバコ屋に置いてある公衆電話から、電話帳で調べ、自動車協会みたいなところに電話をかけて、例のナフキンに記した母の車のナンバーを照会し、その車が置いてある住所を教えてくれと、現在だったら個人情報ダダ漏れなんだけど、その方法で母が住んでいるマンションを探り出し、パンの配達で使っているオート三輪に乗りやってきた。

「よくここが分かったね」
「本当に十万円、貸してくれないのかい」
「貸してあげるよ。その代わり、お前を抵当に取るよ。十万円返せなきゃ、お前はわたしのものになるんだよ」
「分かったよ」

そう言うと三益愛子は、川口に十万円の小切手を渡した。

ドラ息子は父の作品をなし崩しに近い形で持ち出し、金に替えていたが、その父もそれを黙認するより仕方ないという感じであった。

母の療養費が払えなくなり、父を保釈するより仕方なくなった野添は、モデルの仕事でその家に行った時、思いあまってドラ息子に十万円を貸してくれと頼み込んだ。

「そんな金、すぐに用意してあげるよ。明日、君のアパートに届けるから」

川口は弁護士事務所を訪れていたが、そこで弁護士から父の保釈はまだ伸びると思いがけないことを言われてしまった。

「そんな。あなたが十万円を用意すれば父を保釈できるというから、金は用意してきたんです」
「選挙違反に関しては、まだ取り調べが伸びるようなんだよ」
「話が違うじゃないですか。もっと弁護のほうに熱を入れてほしいものですな」
「君に法律の何が分かると言うんだ」

川口はケツをまくって法律事務所を飛び出した。十万円は無駄金になってしまった。そう川口が思った時、彼の頭にあるアイデアが浮かんだ。

「そうだ。この金をあの娘(コ)に渡せばいいんだ」

そう思い立って野添に連絡を取ろうとした時、川口は例のナフキンを公衆電話の電話帳に挟んだままにしてしまったことを思い出した。

すぐに電話帳が置いてあるタバコ屋に行ってみたが、電話帳にナフキンはなかった。途方に暮れる川口に土砂降りの雨が叩きつける。

ずぶ濡れになりながら川口は、仲間が集まるバーにやってきた。

「ストレートで一杯くれ」
「どうしたんだよ。浮かない顔して」
「あの娘がどこにいるか分かんなくなっちまったんだよ」
「あの娘って、きのうのバイクの娘か」
「ああ」
「なんか麻雀みたいな名前のアパートに住んでいるって言っていたな」
「おい!思い出せよ!」
「紅雀荘!紅雀荘だよ!」
「世田谷なのは確かなんだ!」

そう言うと川口は、再び土砂降りの雨の中に飛び出して行った。そして、世田谷までやってくると交番の巡査に、辺りに紅雀荘という名前のアパートはないか聞いた。

その頃、野添が住むアパートには例のドラ息子が背広を着てやってきていた。

「散らかっているけど部屋にどうぞ」
「十万円確かに用意してきたぜ。確認してみるんだな」

言うか言わないか、ドラ息子は案の定、野添の身体を奪いにかかってきた。

「やめてください。やめて」

その時、ドアを叩くノックの音が聞こえて、川口が顔を覗かせた。

「あっ。コノヤロ。何してんだよ」

川口とドラ息子は廊下に出て喧嘩になったのだが、圧倒的にドラ息子が強い。まともにやり合ったんじゃ勝てないと思った川口は、置いてあった酒瓶を割ると、その先端をドラ息子に突きつけた。

「これでもまだやるのか。金もってさっさっと失せろ」

ドラ息子は金を持って退散するより仕方がなかった。川口は野添の部屋に戻ると、彼女に十万円の小切手を渡そうとした。すると彼女はアパートから出て行った。それを追う川口。

「どうして。どうして。そんなにわたしに親切にしてくださるの。そんな大金、もらうことはできません。理由を教えてください」

暗がりの中、川口はおもむろに野添の唇を奪った。

「理由はこれだよ」
「ひどい。ひどいわ。なぜ好きと一言言ってくれないの」
「ごめんよ。俺は君のことが好きだよ。なんとかしてあげたかったんだよ」

そのまま二人は抱き合った。

ラストシーン。野添に支えられて拘置所から出てくる父親。それを見つめている川口浩と三益愛子。

「乗せて行ってあげようじゃないか」

三益愛子はそう言うと、野添とその父の傍らに車を停めた。川口浩は二人に車に乗れとジェスチャーをする。そして、四人を乗せた車は遠ざかって行く。そこにかぶさるエンドマーク。

ここに描かれているのは、現在で言ったらヤングケアラーとも言うべき若者である。いや。50年代当時は今とは違った形で、このような若者が多かったのかもしれない。

しかし、繰り返しになるが、ここには悲壮感や重たさのようなものは存在しない。むしろ颯爽と生きる若者の姿が描かれていて、この主題は増村の次回作『青空娘』に引き継がれていくことになる。

そう言った意味でも、増村保造の処女作にふさわしい作品であると言えるだろう。


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