乾いた花

映画『乾いた花』を見る。ムショ帰りのやくざが、シャバに戻ってみると、状況は一変していて、というシチュエーションは、やくざ映画にはよくあるパターンである。
そのやくざが池部良。

さらに組長などの幹部は、すでに手打ちをしていて、自分がムショに行った意味までなんだったのか、それでも組と言う組織のなかで生きなければならないやくざの定めというものを描いた映画というものもたくさんある。

ただ、オーソドックスな任侠映画は、そのなかで義理や人情などを描き、正義のやくざ対悪のやくざという図式を構築し、最後は正義のやくざが着流しにドス一本持って、殴り込みに行き悪のやくざをばったばったと斬り殺し、見るものにカタルシスけを与える、というのが定石である。

『乾いた花』を見ながら、どんどんと芸術的方向性へ誘導されてゆくのに気づいた。監督は、大島渚、吉田喜重などと共に松竹ヌーヴェルバーグを牽引した篠田正浩。原作は石原慎太郎。

初めは、こういう作調のやくざ映画もあるのか、ぐらいに思っていたが、ワンカット、ワンカットに芸術性を見いだそうとする篠田正浩の意図がうっとうしくなってきた。

賭場にいた謎の女、加賀まりこと接近した池部は、加賀まりこからより大きな賭場を紹介してくれと頼まれ、徐々に接近してゆく。しかし、加賀まりこは一体どこの何者なのか、ようとして知れない。
ただ、カタギの身であり、若い女ながら賭場に出入りしたり、スポーツカーをぶっ飛ばしたりしているところなどから、彼女が日常の退屈さから逃れようと、よりスリルを味わいたいと欲していることは確かなようだ。

一方、池部には彼がムショに入っている間、待ち続けていた「昔の女」がいた。彼女が住んでいるのが時計屋。その室内には、無数の時計が掛けてあり、カチカチカチカチと音を立てている。
それに池部の住んでいるアパート。やけに無機的な人間の生活臭がしない部屋。さらに池部の組の親分と手打ちした敵側の親分、東野英治郎が歓談するレストランのセットなど、あえて篠田正浩がスタイリッシュな空間構成にこだわっていることは目に見えるほど分る。当然、サントラに演歌なんかかからない。

それで、加賀まりこが池部の部屋にやってきて、「人生なんて退屈ね」とか言い、それに池部も応えるシーンがあるのだが、やくざ映画で人生論語られたんじゃ、辟易するにもほどがあるというものである。まったく野暮ったくてかなわない。

さらに賭場のすみでいつもボッーと座っている藤木孝は、中国人とのハーフで、香港でふたり殺して横浜に飛んできた、そしてヤク中という設定なのだが、このキャラが活かされていない。夜の飲屋街で、藤木は池部を狙いナイフを投げつけ、追いつ追われつを展開させるのだが、なぜ藤木が池部を狙うのか、その動機がまるで分らない。

結局、加賀まりこは藤木の持っている危なげな魅力に惹かれてゆくのだが、こんなシーンを描くんだったら、藤木がその腕に注射針でも差している模様を描いたほうが、よっぽど効果的だったと思える。

加賀まりこが藤木に興味を持つようになると、池部は彼女が悪に染まってゆくのではないかと危機感を募らせる。そして夢を見る。
この夢のシーンが、ヌーヴェルバーグ的演出そのもので、モノクロのなか動く池部の巨大な影が映ったり、ガラスの割れた窓を池部が覗くと、そこには藤木にいたぶられている加賀まりこがいたりする。ここサイレントシーンで、その模様を見て苦悶の表情を浮かべる池部のアップが映し出される。
これこそ、芸術的指向の極みであり、そんなもんやくざ映画で見せられてもなあ、というのが正直なところである。

だが、それこそが篠田正浩の意図そのものだったに違いない。様式化しているやくざ映画の枠を破りたい。どこにもないやくざ映画を撮りたい。やくざ映画というフォーマットのなかで斬新で、実験的な作品を作りたい。

この手の映画を見る時、いつも思うのだが、確かにこういう作り方というのは、製作されたその時点では目新しく斬新なものだったかもしれない。
しかし、現在という時間軸のなかに放り出された時、すでにそれは安っぽい演出方法でしかなくなっている。

池部と再会した加賀まりこは、
「私、ヤクを試してみたの」
と言う。それを叱責する池部だが、
「これからヤクより、面白いものをみせてやるよ」
と、加賀まりこをある喫茶店に連れてゆく。
「俺はこれから、人殺しをやるんだ。生きている実存ってやつに繋がってる気がするよ」
みたいな台詞があって、これには本当、バカなんじゃないかと思った。これから人を殺すやくざが、実存性とかそんな哲学的なこと考えるかっつーの!

ここで見えてくるものは、要するに原作者の石原慎太郎も含めて、ハイソなインテリと称する輩がやくざをテーマにして、観念ごっこをしているだけだと言うことだ。
そして、聖歌が流れるなか池部は人を殺す。

つまらない映画を見た時、時間返せと人はよく思うらしいが、俺は漫画しか描けないけど、こういう作品だけは作るまいと思った。

ただ、64年における加賀まりこは、特別な存在感を放っている。すごく魅力的である。
それだけが唯一の救いか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?