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【資料】物部氏の正体

本の宣伝のサイトなのかな?ライターの読書感想文のサイト。

物部氏とは何か?確かにここでも言われている通り、ホント物部は謎だよな、知りたいなとワシも思ってた。この記事読んでも物部の正体は分からないが、謎だよね〜〜という気持ちの共有としてUP。

物部氏の正体

関裕二 著


そら見つ日本(やまと)の国。
この名はニギハヤヒによって作られた。
そのニギハヤヒを祖とする物部氏。
かれらは、古代日本に何をもたらしたのか。
蘇我氏と崇仏の是非を争っただけではなかった。
それ以前から、ヤマトの建国にかかわっていた。
いや、天皇家よりも前にヤマトを治めていたのかもしれない。
いや、大和以前に出雲や吉備にいたのかもしれない。
物部の謎は、日本の謎である。

数ある古代日本の謎のなかでも物部(もののべ)の謎ほど、深くて怪しいものはない。
研究者たちも、こと物部をめぐっては百花繚乱というよりも、むしろお手上げの状態だ。ぼくもかつて直木孝次郎や鳥越憲三郎のものや、70年代後半に出版された黛弘道の『物部・蘇我氏と古代王権』とか、畑井弘の『物部氏の伝承』などを読んでこのかた、物部氏をめぐる謎をずうっと気にしてきたのだが、どうにも埒があいてはいなかった。

いろいろ理由があるのだが、なかでも、和銅3年(710)の平城京遷都のおりに、石上(物部)朝臣麻呂が藤原京の留守役にのこされてからというもの、物部一族は日本の表舞台からすっかり消されてしまったということが大きい。この処置を断行したのは藤原不比等だった。このため、物部をめぐる記録は正史のなかでは改竄されてしまった。物部の足跡そのものを正確に読みとれるテキストがない。

藤原不比等

草壁皇子持統から元正に至る4代の天皇に仕え大宝律令日本書紀の編纂に関わり、文武から元正に至る3代の天皇の擁立に貢献した。
中臣鎌足の次男として生まれたため、少年時代はまだ中臣氏を名乗っていた。11歳の時、父・鎌足が死去。鎌足が亡くなる直前に藤原氏に改姓した際に不比等がこれを継承している。


だから物部の歴史を多少とも知るには、『古事記』はむろんのこと、不比等の主唱によって編纂された『日本書紀』すらかなり読み替える必要がある。のちに『先代旧事本紀』という物部氏寄りの伝承をまとめたものが出るのだが、これも偽書説が強く、史実として鵜呑みにすることは、ほとんどできない。
なぜ物部はわかりにくいのか。なぜ物部一族は消されたのか。たんに藤原氏と対立しただけなのか。その物部氏はなぜ『先代旧事本紀』を書かざるをえなかったのか。こういうことはまだあきらかにはされていないのだ。

いったい物部は歴史を震撼とさせるような何かを仕出かしたのだろうか。それとも、物部の足跡を辿られては困るようなことが、日本史の展開のなかや、記紀の編纂者たちの事情にあったのだろうか。こういうこともその全貌はわかってはいない。

けれども、記紀、古代歌謡、『先代旧事本紀』、各地の社伝などを徹底的に組み直していけば、何かは見えてくる。その何かは、ひょっとしたらとんでもないことなのである。とくに神武東征以前における物部の祖にあたるニギハヤヒ(饒速日命)の一族の活躍は、古代日本の本質的な謎を暗示する。

一方、畑井弘の研究がすでに示唆していたことであるが、実は物部一族とよべるような氏族はいなかったという説もある。

物部とは、「物具」(もののぐ=兵器)を中心とする金属生産にかかわった者たち、「フツノミタマ」を祀っていた者たち、「もののふ」として軍事に従った者たちなどの、幾多の「物部八十伴雄」(もののふのやそとものお)と、その後に「物部連」(もののべのむらじ)としてヤマト王権の軍事・警察・祭祀をつかさどった職掌にあった者たちとの、すべての総称であったのではないかというのだ。

まあ、そういう説があるのはいいだろう。しかし、仮にそうだとしても、やはりそこにはフツノミタマを奉じる一族がいたであろうし、石上神宮の呪術を司る一族がいたはずなのだ。そして、その祖をニギハヤヒと認めることを打擲するわけにはいかないはずなのだ。ぼくは、やはり物部一族が“いた”と思いたい。

では、物部とはどんな一族だったのか。出自はどこなのか。物部が仕出かしたこととは何なのか。ヤマト朝廷と物部の物語はどんな重なりをもっていたのか。

ヤマト地方の豪族勢力図

一般には、物部氏の名は、蘇我氏の「崇仏」に反旗をひるがえした物部守屋の一族だというふうに知られてきた。神祇派が物部氏で、崇仏派が蘇我氏だと教えられてきた。
しかし、こんなことは古代日本史が見せたごくごく一部の幕間劇の出来事にすぎず、そのずっとずっと前に、物部の祖先たちがヤマトの建国にあずかっていたはずなのである。
このことについてはあとで詳しくのべるけれど、いまそれを端的にいえば、神武やヤマトタケルの東征に先立って、すでに「物部の祖」たるニギハヤヒのヤマト君臨があったのだろうということになる。

本書は、この謎にかかわって、類書にない仮説を展開してみせた。著者の関裕二には、これ以前に『蘇我氏の正体』『藤原氏の正体』があって、その総決算としてごく最近に本書が綴られた。1998年にも、本書の前身にあたる『消された王権・物部氏の謎』を書いた。

著者は歴史作家という肩書になっているが、1991年に『聖徳太子は蘇我入鹿である』を発表して以来、つねに古代日本の語られざる謎の組み上げをめざして知的踏査を試みてきた。最近は『かごめ歌の暗号』で、例の「籠の中の鳥」の正体を追いかけた。その姿勢と鋭い推理力は、そんじょそこいらのアカデミシャンの顔色をなさしむるところがある。お偉いさんたちの学説にも惑わされていない。むろん、お偉いさんの成果もそれなりに咀嚼している。

『聖徳太子は蘇我入鹿である』➡駄目だな・・・(-_-;)

とはいえ、これから紹介する著者の仮説が全面的に当たっているかどうかは、わからない。いろいろ齟齬もあるし、まだ論証が薄いところも少なくない。なにしろ物部氏の謎は、古代史の謎のなかの謎なのだ。けれども、ぼくが類書を読んできたかぎりでは、いまのところはこの仮説が一番おもしろい。まあ、覗いてみてほしい。


仮説のクライマックスに入る前に、古代日本の最も重大な前史にあたるところを、予備知識として理解しておいたほうがいいだろう。記紀神話に属するものだ。
したがって、これから書くことには史実とはいえないところが多いのだが、あるいはまだ確証されていないことも多いのだが、それならそれらのすべてデタラメかというと、必ずしもそうとは言い切れない。そこを忖度して、まずは読まれたい。大事なのは、アブダクションの効いた想像力をはたらかせることだ。
時代は天皇初代の神武のころの話に一気にさかのぼる。『日本書紀』には、こう書いてある。


出雲に国譲りを強制したアマテラスの一族は、使節や息子たちを「地上」に降臨させることを思いつく。何度かの失敗のあと、ホノニニギノミコトが全権を担った。ホノニニギは猿田彦らに導かれて真床覆衾(まどこおうふすま)にくるまり、日向の高千穂に降りた。
ホノニニギはその後、長屋の笠狭碕(野間岬)に赴き、さらに南九州の各地で子孫を落とすと、そのなかからヒコホホデミ(山幸彦)が衣鉢を継承し、その子にウガヤフキアエズが生まれた。さらにその子にイワレヒコが育った。これが『書紀』によって初代天皇とされたカムヤマトイワレヒコこと、神武天皇である。

神武は45歳のときに、こんなことを側近たちに洩らした。「わが天祖(あまつおや)が西のほとりに降臨して179万2470余年が過ぎた。しかし遠く遥かな地では、われらの徳も及ばず、村々の長(おさ)も境を分かって互いに争っている。ついては、シオツチノオジ(塩土老翁)に聞いたところ、東のほうに四方を山に囲まれた美しい土地があって、そこに天磐船(あまのいわふね)に乗って飛び降りた者がいるらしい。
思うに、そここそわれらの大業を広めるにふさわしいのではないか。その飛び降りた者はニギハヤヒノミコト(饒速日命)という名だとも聞いた。私はその地に赴いてみようかと思う」。


神武は、この年の10月5日、もろもろの皇子や軍団を率いて東をめざした。神武東征のスタートである。
北九州の遠賀川付近から瀬戸内に入り、ついに難波碕に辿り着いた。そこから淀川をさかのぼって河内の草香邑(くさかのむら)に寄り、ついで竜田(奈良県葛城郡王子)へ向かおうとしたところ、あまりに道が狭く、生駒山に方向転換をした。
このとき、この神武の動向を聞きつけた者がいた。長髄彦(ナガスネヒコ)である。どうやらそのあたり(河内・大和一帯)を押さえている土着の首長らしい。
長髄彦は「天神(あまつかみ)がやってくるというのは、わが領域を奪おうとしているにちがいない」と判断し、兵をあげて神武一行と対峙した。両軍は孔舎衛坂(くさえのさか=東大阪日下町)で激突し、神武の兄のイツセノミコト(五瀬命)が負傷した(その後、イツセは紀の国で亡くなった)。
 苦戦を強いられた神武一行は、「私は日神(ひのかみ)の子孫なのに、まっすぐ東に向かったのはまちがいだった」と言い(太陽の運行に逆らったと言い)、タギシミミノミコト(手研耳命)を先頭に、迂回して熊野からヤマトに入ることにした。
熊野にはタカクラジ(高倉下)という者がいて、あるとき夢を見た。アマテラスがタケミカヅチ(武甕雷神・建御雷神)に語って、「葦原中ツ国はまだ乱れている。お前が行って和ませなさい」と言われたというのである。タケミカヅチは自分が行かなくとも、私のもっている立派な剣があれば平定は可能だろうから、これを天孫(神武)に提供しようと判断した。
 この剣は「フツノミタマ」というものだった。タカクラジが夢からさめると、はたして「フツノミタマ」が蔵にある。さっそく神武に差し上げた。



かくて神武は進軍を始めるのだが、道が険しくて難渋する。そのとき八咫烏が飛んできて、神武の一行を導いた。そこにヒノオミノミコト(日臣命)が加わった(ヒノオミは大伴氏の祖。道臣命ともいわれる)。
それでも一行はやはり苦戦を強いられたのだが、なんとかヤマトに近づき、莵田(うだ)の高倉山(奈良県大宇陀)にのぼって周囲を見渡すことができた。国見丘にヤソタケル(八十梟師)が軍団を従えて陣取っているのが見えた(『古事記』ではヤソタケルは土蜘蛛とされる)。これではヤマト入りは難しい。どうするか。

するとその晩、神武は夢を見た。天神(あまつかみ)があらわれ、こう告げた。「天香具山の社のなかの土をとって、天平瓦(あまのひらか)を80枚つくり、あわせて厳甕(いつへ)をつくり、天神地祇を敬って祇り、厳呪詛をおこないなさい。そうすれば敵は平伏するだろう」。
 神武はさっそく、シイネツヒコ(椎根津彦)に蓑笠をかぶらせて老父の恰好をさせ、弟には老婆の恰好をさせ、天香具山の土をとりにいかせた。案の定、敵兵が道を埋めていたが、二人の姿を見ると「みっともないやつらだ」と笑い、口々に罵声を浴びせた。その隙をついて二人は山に入り、土をとって帰ってきた。神武は丹生の川上(吉野あたり)で八十平瓦(やそひらか)と厳甕をつくって、天神地祇に祈って敵の調伏をした。

調伏害意のある者を修法により撃破すること。特に密教で行われる。

まだまだ続くがここまで。


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