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36.東の王様 王土王民思想

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天皇制を調べた。天皇制とは「王土王民思想」、すなわち「土地と人民は君主の支配に必ず服従しなければならない。」また、「君主だけが統治権を持ち、君主の前では誰もが平等に奴隷。

天皇が日本人に与えた律令制度とは、日本は天皇の土地、国民は天皇の持ち物、一君万民(百姓)の原則に則って、国の君主天皇は国民に一律に平等に自分の土地を貸し与え、その代わりに国民は君主に対して一律平等に、賃貸料である税金、労役、兵役などの義務を平等に負う。

古代中国思想に由来する天皇の「王土王民思想」が物騒なので調べた。こんなに酷いの?そういえば、王様とはなんなのか?今回のnoteは淡々と理解に必要そうな情報を出来るだけ短く並べた、ワシも学び中なので解説はしていない。読み物として面白いかどうかは知らん。しかし感じられる物はあるはずだ。みなさんが調べるための最初の知識として使ってください。

で・・・のち、西洋の「王権神授説」についても話さないといけない。多すぎる・・!(;´Д`)


序章

中国の宗教、天の崇拝

天の崇拝は祖先崇拝や多神教と密接に関係している。なぜなら、祖先や神々は天と人間の仲介人とみなされているからである。「天子」としても知られる中国の皇帝は、国家を代表して天と意思を疎通するという想像上の能力によって、天命、そして支配者としての正統性を受けた。

儒教は、以来の学識や聖典を継承している。儒教に関する宗教学において、上帝は、明らかな天道というロゴスである。儀礼は上帝のロゴスである。。今文経学の伝統では、孔子は、上帝の「王座なき」王であり、世界の救世主である。しかし、古文経学は、孔子は上帝の哲人であり、先の三代王朝からの遺産に新たな解釈を与えてくれた人物であると主張する。道教において上帝は玉皇大帝(偉大なる天の皇帝の意)という長い肩書きで呼ばれて深い敬意を払われており、玉帝(ヒスイの君主)として知られている。

中華帝国の凋落に伴い、帝国的な天の崇拝は衰退したが、道教や儒教、民俗宗教に残っている。支配力としての天は通俗的表現に残っている。英語の話者が「オーマイゴッド」(おお、神よ)や「サンキュー神様」というところで、中国人は「老天!」や「天哪!」(おお、天よ!)、あるいは「謝天謝地」(天と地よありがとう)というだろう。



(てん、あま)は、東洋思想の鍵概念のひとつで、人の上にある存在、人を超えた存在をあらわす。また東洋思想の概念だけでなく、後の時代に中国やアジアに伝来したインド哲学、仏教や、西洋思想・キリスト教 等々に含まれる類似の概念を漢字で表記するためにも「天」という語は用いられている。

「天」という言葉には様々な意味がある。まず基本から説明すると、「」という漢字は、人の姿を現す「大」の上に、「一」を置いて、六書の指事で意味内容を示しており、人の上方、空の方向を示している。この意味における天は陽気の象徴であり、陰気の象徴である「地」と対義語になる。時に、「壌」と対義語にする場合もある。人の上方、という意味では「空」という字と意味がいくらか重なっている。その意味では(似た意味の字を連ねることで意味を示す方法で)「天空」とも言う。


中国思想の「天」「天帝」「天命」
「天人相関説」も参照
中国の思想では、全ての人には天から、一生をかけて行うべき命令が与えられており、それを実行しようとする人は天から助けを受け、天命に逆らう者は必ず滅ぶと考えられている。天は全ての人のふるまいを見ており、善を行うものには天恵を、悪を行うものには天罰を与える。

その時の朝廷が悪政を行えば天は自然災害の形を取ってこれを知らせ、逆にこの世に聖天子が現れる前兆として、天は珍しい動物を遣わしたり、珍しい出来事を起こしたりして知らせる、と考えられた。特に皇帝、王朝の交代時には盛んに使われ、ある王朝を倒そうとする者は「天の命が革(あらた)まって我々に新しい天命が授けられた。」と言う考え方をする。つまり革命である。


奈良時代の天然痘・地震と天平文化

729年から749年まで続いた聖武天皇が治めた天平は、地震や疫病の大流行がありました。734年5月18日には、畿内七道を揺るがす地震が起き、誉田山古墳の一部が崩壊。その直後、735年から737年には、天然痘と思われる疫病が大流行。総人口の3割前後が死亡したとも言われる。この疫病で、藤原不比等の息子4人兄弟(藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂)が病死し。

地震や疫病、飢饉に悩んだ聖武天皇は、仏教の力を借り、国分寺や国分尼寺を各地に作らせ、その総本山の東大寺と法華寺を建て、大仏を建立しました。多くの農民が命を落としたため、743年には、農業振興のため墾田永年私財法を制定し、農地の私有化が図られました。直後の745年6月5日には、天平地震が発生。

天平文化成立の裏には、感染症と大地震があったようです。ちなみに、節分のときに行う豆まきは、宮中で行われた”追儺”に起源があるそうです。疫病を持ち込む鬼を国外に追い払うために行われたと言われ、8世紀に始まったそうです。天平の疫病との関りが想像されます。


859年から877年まで続いた貞観時代は、藤原良房摂関政治が始まった時代でもあります。
861年5月24日に、福岡県の直方に隕石が落下、目撃記録が残る世界最古の隕石のようです。863年7月10日には、越中・越後で地震が起きます。同年には、都でインフルエンザと思われる疫病が蔓延し、終息後、霊を鎮めるため神泉苑で御霊会が開かれました。翌年864年7月2日には、富士山が大噴火


追儺(ついな)

鬼やらい、なやらいなどともいい、日本では節分の豆撒(ま)きをこの名称でよぶことが多いが、本来は疫鬼を追い払う行事。中国では『周礼(しゅらい)』によれば、熊(くま)の皮をかぶり黄金の四つ目の面をつけ、黒衣に朱裳(しゅしょう)を着した方相(ほうそう)氏という呪師が矛と盾を手にして、宮廷の中から疫鬼を追い出す作法を行ったという。

〈おにやらい〉とも。疫鬼を追い払う習俗。古く中国で行われ,日本へは陰陽道(おんみょうどう)の行事として取り入れられた。延喜式によれば,朝廷では毎年12月晦日(みそか)に行い,方相氏が戈(ほこ)をもって盾(たて)をたたき,群臣がモモの弓,アシの矢で鬼を追い払った。この行事は早くすたれ,現在社寺で節分祭に行われるのは,民間の豆まきの習俗と古式の追儺が習合したものといわれている。法隆寺薬師寺鬼追式が名高い。


節分

立春の前日を節分といって、豆まきの行事が行われるが、これは本来、追儺(ついな)と呼ばれる宮中行事。追儺はまた鬼やらいともいい、疫鬼(えきき)・悪鬼を追い払う行事。古い時代は宮中でのみ行われていたが、江戸時代になると宮中では廃止になり、逆に庶民の間に広がった。節分の豆まきのことばは、「福は内、鬼は外」であるが、仏教寺院では「福は内、鬼も内」と唱える所もある。鬼を集めて、お経の力で改心させるためだという。

立春の前日。雑節の一つで,新暦では2月3,4日ころ。古くは1日が夜から始まり,立春から新年が始まると考えられたため,節分は年頭の行事として重んじられた。現在も邪気を払い幸いを願う習俗が伝わり,社寺では節分祭や追儺(ついな),家庭でも豆まきが行われる。

せつぶん【節分】[狂言]
節分の夜、女に一目ぼれした鬼が、小歌をうたって口説く。女は鬼をだまして隠れ蓑みの・隠れ笠・打ち出の小槌こづちを取り上げ、豆をまいて追い払う。

うちでのこづち

うちでのこづち(打ち出の小槌、打出の小槌)は、振ることにより様々なものが出てくるとされる伝説上の槌(つち)。日本の説話や昔話に登場している宝物のひとつである。鬼の持つ宝物であるとされるほか、大黒天(だいこくてん)の持ち物であるともいわれ、富をもたらす象徴

宝物集とは平安時代末期の仏教説話集
打ち出の小槌は「人にとって第一の宝は何か」をめぐった語りの中に、宝物を出すというだけでなく、なんでも思いのままを打ち出せる物として描かれます。しかし「鐘の音を聞くと消え失せてしまう」もので「仏法こそ第一の宝である」というクソ教え。

⭕️うちでのこづち(大黒天)VS除夜の鐘(仏教)


本題

王土王民思想

王土王民思想(おうどおうみんしそう)とは、地上にある全ての土地は天命を受けた帝王のものであり、そこに住む全ての人民は帝王の支配物であるという思想のこと。

詩経』小雅・北山之什にある「この空の下に王のものでない土地はなく、地の果て(浜辺)まで王の臣でない人間はいない」という詩句に代表されるように、中国では早くから中央集権が進むとともに四海・天下の概念が発達して、帝王の一元的・排他的な世界支配を象徴する考え方として説かれ、儒教・律令などにも反映されてきた。

概要
『詩経』小雅・北山之什にある「溥天之下 莫レ非二王土一 率土之濱 莫レ非二王臣一」

溥天之下 莫 非 王土 率土之濱  莫 非 王臣
自身で翻訳し確認するために、整理したもの。上の翻訳は問題ない。浜が付くんじゃないかなと思ったくらい。

日本の古代国家もこうした中国の思想を受容して、公地公民制とともに王土王民理念が説かれてきた。


詩経

中国最古の詩篇。儒教の経典である経書の一つに数えられる。中国の支配層を形成する士大夫層の基本的な教養として、漢代から近世に至るまでさまざまに学ばれ、さまざまな解釈が生まれた。

士大夫=旧中国社会で上流階級をさす語。

成立
もとは口承で伝播していたが、春秋時代前期に書きとめられて成書化したとされる。


くわしく詩経

詩経』は、中国最古の詩集で、西周時代の初めから春秋時代の中頃紀元前11世紀~紀元前6世紀頃)までの305編の詩が収録されている(このほかに、「勝の六篇」と呼ばれる、題名はあるが内容のない、つまり言葉のない詩が6編あり、題名は「南信」「白花」「華美」「游庚」「重秋」「游乙」となっている。

元々は「詩」と呼ばれていましたが、「詩三百」とも呼ばれていました。

漢朝の時代から、儒教では経典とされ、『詩経』と呼ばれていましたが、正式に『詩経』という名称が使われるようになったのは、南宋の初めである。春秋戦国時代に分裂した結果、詩経には数多くのバージョンがあり、秦の始皇帝による焚書の後は、詩経を見つけることが困難になっていた。

漢の武帝は、現存する詩経を全国で精力的に探し始め、「”詩”に歯が生え始めた」という。その中でも最も有名で、現在まで残っているのは、漢の景帝の三男である劉徳と毛常の編纂した『詩経』であり、そのため『毛詩』とも呼ばれています。現在、安徽大学に所蔵されている戦国時代初期の『詩経』は、最も古い原典とされている。


天子

天子という称号は、天の子を意味し、天下を支配する権力が天から来たことを象徴する。黄帝、尭、舜はいずれも天子として崇められていた[1][2]。
周王朝時代、支配者の正式名称は「天子」でした。 秦の時代以来、中国のすべての支配者は皇帝の称号を与えられ、天子とも呼ばれています。単于天皇[6][7]、カーン(可汗)などの称号と類似している。

天子の命令は、「聖旨(聖なる命令)」、すなわち「徳の圣人(聖人・賢者)」命令とも呼ばれています。明や清の皇帝が使っていた「奉天承運皇帝」という言葉は、皇帝の権力が天に委ねられていることを示すもので、西洋の言葉で王の神権を意味しています。ここでいう「天」とは、「天神」や「天公」を意味します。

昔から中国の皇帝だけが「天子」と呼ぶ資格があり、他の国の君主はせいぜい「大王」または「国王」と呼ぶしかなかった。華夏(中国を美化した名)の天子は、概念的には、朝鮮国王など異民族王室を凌駕する高い地位と優越性を持った存在であった。倭国(もと日本の国名)が隋に使者を送った際には、自称「日の出るところの天子」を名乗り、煬帝の激怒を買って、日本はまた使者を送り、自称「夷人」を名乗って朝貢した。

夷人(いじん)
① 平凡な人。凡人。
② (「夷」は野蛮人の意) 文明の開けていない国の人。野蛮人。えびす。また、外国人、異民族を軽視していう語。
③未開人。野蛮人。また、外国人を軽視していうこともある。
『隋書』81巻「東夷伝」(日本、倭国関係の文の抜粋のようだ)
● 皇帝は不愉快さを鴻卿卿に言う、『蛮族が無礼な本を持っていても、二度と報告するな』と言った。
● すでに彼都に来て、その王は清に会い大喜びし言った、『私は海西に大隋、礼義の国があると聞いて、朝貢をしました。』
● 『夷人(野蛮人)は海辺の僻地にいて、境内の内に留まっても、私はすぐには顔を合わせない。』
● 『今、故国は清道に館を飾り、大使を待ち、大国の新しさを聞きたがっています。』
(ここに途切れ途切れでない文がある→オリジナルコンテンツは2019-05-08にアーカイブされています)リンク

注目すべき点は、華夏(中国)の歴史上、異民族の「皇」や「天子」の地位を認めたことがなく、華夏以外の野蛮人は中国に対して「王」としか言いようがないということである。例えば、朝鮮大王や日本国王

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