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和尚ラジニーシの「反逆のスピリット」

本を書き写しただけなのでタダです、0円!でも面倒くさかった・・とても大事な思考・考察だと思うので読んで下さいね。

和尚(Osho)ラジニーシ「反逆のスピリット」は、精神世界では有名な名著なんだけど、これだけは二度と再販されない。

なだめる破壊的なスピリチュアル

 こちらの私自身の翻訳記事で、和尚ラジニーシだけ疑問があります。実は和尚はアメリカに殺されたのは有名、また、彼の本は出版されるたびにどんどん甘ったるくなっています。私は編集改ざんされていると睨んでいる。殺された話は検索すると詳しく出てきますし、モンリーロバートソンが叩いている。彼はエージェントとしてバレバレです。

 和尚にゲロゲロと思うところは、彼の思想は左翼では有るんです、武器を捨てる方向の人だから。また彼はユダヤ人問題を知らない。アメリカ社会の叩きで終わっています。敵が居なければ、武器を捨てるのはありえる考え方ですが、ユダヤ人が居るのに平和もくそもない。話し合いでどうにかなる者たちではない。それで彼自身が殺されることになるわけですが・・・この記事は、和尚ラジニーシの良い所の抜粋です。ユダヤにそりゃ殺される事を言っています。人類の多くが和尚のこの説法を理解できたら、ユダヤ人の支配に大いにダメージがあります。ネットがない時代、本気で考えたのだとは思います。

抜粋が読み直してたら面白くなって、かなり多くの抜粋になりました。また続きやるかもしれません。アンダーラインの太字が多くなりすぎてしまいました・・・重要なこと言っている、精神世界の本はすてまくりましたが、まだ残っている数冊の一つ。

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2020年7月5日追加、よからぬことを確かめました。

 和尚ラジニーシの本は書き換えられている。彼は講話が沢山あるので殺された後も本がたくさん出版されます。どんどん甘ったるくなる。初期の和尚ラジニーシ名著で「反逆のスピリット」という精神世界で有名な本がある。持っているのですが、気になって読み返したら書き換えられています。最新の本に行くにつれ、中身はキリスト教です。

精神世界で有名な翻訳者の山川夫妻はゴーストライターもするのかな?(汗)

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では本題。和尚ラジニーシの「反逆のスピリット」


一部抜粋。まず、もっとも気に入っているところを先に。

社会は人々を白痴のままにしてきた。みんなを愚か者にしてきた。社会は愚か者を必要とする。それは、知性的な人々がまわりにいることを望んでいない。知性を恐れている。なぜなら、知性はつねに、奴属に、迷信に、あらゆる詐欺に、あやゆる愚かさに〜〜知性は絶え間なく反逆している。

愚か者だけがつねに従順だ。神ですら、アダムが愚か者で有ることを望んだ。なぜなら、アダムとイブが神を礼拝しつづけるようにふたりを愚かなままにしておいたのは、彼の既得権益のためだったからだ。

あなたは尊敬されることはないかも知れない。それどころか、あらゆる人から避難されるかも知れない。だが、内側奥深くでは、自由な個人のみが感じることが出来る、法悦ともいうべき歓喜をあなたは感じる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

爆弾、原子爆弾を広島と長崎に落とした男は、自分が何をしているのか、ただの一瞬でも考えなかった。彼の頭は完全に洗脳され、まったく機会的だ。彼は命令されて来ている。彼は従っているのだ。服従はもっとも重要な掟だ。軍隊においてでばかりでなく、教会においても、政治家の世界においてだけでなく、聖職者の世界においても。服従ーーただ従うーーそして彼は従った。ほんの少しでも知性と「個性」を持っている人間なら、少なくても2度は考えただろう。自分は何をしようとしているのか? と。10万人の人々が3分以内に殺されることになるのだ。だが、彼は原子爆弾を2つの都市に落とした。20万人の人々。彼は軍隊に戻り、翌日「休めましたか?」とたずねられて、こう言った。「どうして?私は命令に従ったんだ。よく休んださ。「私は従順な人間なんだ」服従は奴隷の世界では最高の価値がある。どの教育システムも、どの社会、文化、文明も、服従を価値あることとして主張してきた。そして私はあなたがたにいうが、人類を不幸にしてしまったのはこの服従なのだ。この危機の全体は服従ゆえのものだ。人々は何に服従し、何に服従しないかを選ぶことが出来るように、知性的でいる用意ができているべきだ。

参考 米空軍、核ミサイル発射担当将校にキリスト教で聖戦教育/朝日新聞 
https://note.com/zenika/n/n3b1744bc127b

中略

アダムとイブがエデンの園から追放されたのは、彼らが服従しなかったからだ。だが私は彼らを誇りに思っている。なぜなら、彼らは私たちの祖先だからだ。彼らはほんとうに人間としての尊厳を示した。彼らは自分の知性に反しないために、神にさえ逆らうという度胸(ガッツ)を持っていた。それはもっと賢くなろうとする知性的な努力だった。

中略

叡智については、あなたは知恵の実を食べた。それはとても象徴的だ。それはあなたがすでに知恵をもっているということを暗示している。だがすべての宗教は、あなたにそれを使わせまいとしている。彼らはあなたに、イエスが水の上を歩いたなどという、あらゆるたぐいのナンセンスを強引に信じ込ませようとする。だから何だというのか?


人間は知識の樹の実を食べてしまった。彼は知恵の源泉で酔っ払ってしまった。宗教は彼がその力を使うのを防げようとしている。彼らはアダムとイブを防げた、その同じ神からの使者なのだ。これらの使者が人間を無知なままにとどまらせた。あらゆる人間を無知なままにとどまらせた。なせだろう?
 なぜなら、人間が無知であれば、彼らを簡単に奴隷にできるからだ。
もし人々が無知でなかったなら、彼らは自分が「個」であることを主張しはじめる。彼らは自由を要求しはじめる。彼らは自分自身でいたがり、自分のことをしたがる。彼らは歯車になりたがらない。
 政治的指導者と宗教的指導者とは共謀している。宗教的指導者は、人々がもっと知性的になれば、自分たちがどんな答えももち合わせていないようなことについて訪ねるのではないかと恐れている。政治的指導者たちも、あなたが知性的になることを恐れている。なぜなら、彼らは今までずうっとそうしてきた方法では、あなたをだますことができなくなるからだ。彼らはたんに約束するだけで、けっしてその品物はとどけない。

世界成功の地位に地位にいる人々は内側はとても虚ろで暗い。そして彼らは誰かに言うことさえ出来ない。なぜなら人々は笑うからだ。もし彼らが、自分たち大統領になることで、何ひとつ達成しなかったと言ったら、人々は言うだろう。「あなたは愚か者だ。あなたは自分の人生をむだにしたのだ」だから大衆に対しては、彼らはある顔をもっているーーいつも微笑んでいるだけの顔をーージミー・カーター・スマイルだ。
 あなたの微笑みは公共の顔だ。あなたは自分の涙を抑圧している。あなたは自分の悲しみを抑圧している。あなたは自分の惨めさを抑圧している。それは傷の上の傷みたいなものだ。これが世界中でクライマックスに達している。人類は自殺をするかーー

中略

あなたは自分自身に帰るために、勇気をかき集めなければいけない。社会全体があなたを阻むだろう。あなたは非難を受けることになる。が、惨めで、偽善的で、いんちきなまま、だれかほかの人として生きるよりは、全世界に避難される方がはるかにいい。

中略

もしあなたが誠実であること、正直で、真摯で、自分自身であることを主張すれば、だれからも避難されるだろう。

中略

自分自身でたち、自ら「私は私以外の何物にもならないーーよかろうと悪かろうと、受け入れようが受けいられまいが、名誉を得ようが得まいが。ひとつのことは確かだ。私は私自身でありうるだけで、ほかのだれにもなれはしない」と宣言するには、鋼のような気骨が必要だ。これには、生に対する途方もなく革命的なアプローチが必要だ。惨めさの悪循環から永久にぬけだしたいのなら、これがひとりひとりに必要なのは根本的な革命だ。
 あなたは私にたずねている。
 「なぜ、私はあるがままの自分を受け入れることをおそれているのでしょう?」
 それはあなたが、あるがままの自分では受け入れられたことがないからだ。もじ自分自身を受け入れたら、みんなから拒絶されるにちがいないという恐怖と懸念がつくられてきている。
 これが、今までに存在したあらゆる社会、あらゆる文化の接待的条件づけだ。人は自分自身を受け入れ、みんなから拒絶されるか、自分自身を拒絶し、社会と文化全体からの尊敬と名誉を得るか、そのどちらかを選ばなければならない。選択はほんとうにむずかしい。

中略

当然、どの子供も誇りに(世間てい)思われるようなことをしはじめる。子供はさらに偽善的になり、さらにいんちきになり、ますます自身の真正な「個性」から、自分の実存そのものから遠ざかっていく。

中略

私に言わせれば、サニヤス(和尚の弟子になること)は、あなたをあなた自身に連れ戻すことだーーどんな結果になろうとも、どんなに危険であろうとも。あなたは自分自身に帰らなければならない。そこにキリストはいないだろう。キリストはひとりで十分だ。そこにはブッダはいないかもしれない。それで完全にいいのだ。あまりにも大勢のゴータマ・ブッダなどただ退屈なだけだ。「存在」は同じ人をくり返したくはない。「存在」は非常に創造的なので、それぞれの人間に、つねに新しい何か、新しい存在生、新しい可能性、新しい高み、新しい次元、新しい頂きをもたらす。

中略

あなたは、成長の純粋な可能性として生まれた。

 中略

私は絶対的に個人の味方だ。

 中略

あなたは恐怖を落とさなければいけない。それはあなたに押し付けられてきたものだ。自然なものではない。小さな子供たちを見てごらん。自分自身を完全に受け容れている。どんな批判もしない。ほかのだれかになろうとする欲望もない。だが、だれもが成長するにつれて、混乱してくる。あなたは自分自身に帰るために、勇気をかき集めなければいけない。社会全体があなたを阻むだろう。あなたは非難を受けることになる。が、惨めで、偽善的で、いんちきなまま、だれかほかの人としての生を生きるよりは、全世界に非難される方がはるかにいい。
 あなたは至福に満ちた生を生きることができる。そして、そこにはふたつの道は存在しない。ただひとつの道ーーそれは、ただただ自分自身でいることだ。
 

中略

 だが、高速道路にいる群衆全体から離れて、道を独りでいくには途方もない勇気が必要だ。群衆の中にいると人は居心地がよく、暖かく感じる。独りで行こうとすると、当然、人は恐怖を感じる。思考(マインド)は内側で議論しつづけるーー「人類全体がまちがうはずがない。それなのに私は独りで行こうとしている。群衆の一部でいた方がいい。もしまちがっていても責任はないからだ」と。
 責任は周囲のすべての人々に有る。だが、群衆から離れた瞬間、あなたは自分の責任を自らの手に引き受けている。何かまちがえば、あなたに責任がある。
 しかし、ひとつ非常に根本的なことを覚えておきなさい。責任はコインの片側、その反対側は自由だ。人は両方をいっしょに得ることができ、両方をいっしょに失うことが出来る。もし、責任を取りたくなければ、自由を得ることは出来ない。そして自由なしには、成長はない。
 あなたは自分自身に対する責任を引き受けなければいけない。そして自分がどうあれ、成長できる絶対的な自由のうちに生きなければならない。
 あなたは尊敬されることはないかもしれない。それどころか、あらゆる人から非難されるかもしれない。だが、内側深くでは、自由な個人のみが感じることが出来る、法悦とも言うべき歓喜をあなたは感じる。そして、自由な個人のみが、意識のより高い位相へと成長することができる。ヒマラヤのいただきの最候補に到達することができる。
 社会は人々を白痴のままにしてきた。みんなを愚か者にしてきた。社会は愚か者を必要とする。それは、知性的な人々がまわりにいることを望んでいない。知性を恐れている。なぜなら、知性はつねに、奴属に、迷信に、あらゆる詐欺に、あやゆる愚かさに〜〜知性は絶え間なく反逆している。

愚か者だけがつねに従順だ。神ですら、アダムが愚か者で有ることを望んだ。なぜなら、アダムとイブが神を礼拝しつづけるようにふたりを愚かなままにしておいたのは、彼の既得権益のためだったからだ。
 私の洞察では、悪魔が世界で最初の革命家だ。そして、悪魔は歴史全体においてもっとも重要な人物だ。文明、進歩すべては悪魔に負うところが大きい。神ではないーー神は、愚かなアダム、愚かなイブだけを望んだ。そして、もしアダムが神に従ったままだったら、人はいまだにエデンの園で草を食んでいただろう!
 人間は前進した。アダムが神に逆らったからだ。神は体制だった。神は、体制、権威、権力と支配を代表していた。知性的な人を奴隷にすることはできない。彼は奴隷になるよりは、むしろ死ぬことをえらぶだろう。彼を彼自身の中心から引き離すことはできない。
 私の人は、私が反逆の宗教のみを信じるという事実を学ばなければならない。それ以外に宗教性はない。それ以外に、あなたの内に眠る至高の潜在性にむけて、意識が頭をもたげる可能性はない。

中略

私はある有名なヒンドゥー教の聖人に会った。彼は聞きに集まった数人の人に語りかけていた。
 「幸福の秘策とは、いつも不幸な人々に目を向けることだ。体の不自由な人を見なさい。そうすれば、自分がかたわでないことに幸せを感じるだろう。盲目の人を見なさい。そうすれば自分が盲目でないことを幸せに感じるだろう。貧しい人を見なさい。あなたは自分が貧しくないことを幸せに思うだろう・・・・」
 私はその馬鹿者を止めなければならなかった。

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中略

親や教師はつねに、人に認められ、社会に受け容れられるようになければいけないと、あたたがたに言いつづけている。これは人々を自分の支配下におこうとするきわめてずる賢いやり口だ。 

中略

反逆者は闘志であり戦士だーーだが、ヒマラヤの洞窟にいてどうして戦士になれよう?あなたはいったいだれと戦うつもりだね?
 反逆者は社会にとどまるが、もはや社会の一部ではない。あおれが彼の放棄であり、彼の反逆性だ。彼は頑固でエゴイストではない。とにかく彼は、盲目的に戦うということをしない。彼は何か正しいものに出会えば従うが、それは何が正しいかという自分自身の感覚によって従うのであって、他人によって与えられた戒律に従うのではない。もしそれが正しくないとわかれば、その代償がいかに高くつくものであろうと、それには従わない。彼は磔なら受け入れるかもしれないが、精神的な従属はけっして受け入れない。

中略

昔の聖人はイエスマンだった。新しい反逆者は戦士ーーすべての誤っているもの、非人間的なものと戦う戦士、すべての愚かしく非科学的なものと戦う戦士だ。あまりにも愚かな考えが、あらゆる預言者、聖人、賢者たちによって広められてきているので・・・・あらゆる宗教、伝統、社会において、そうした迷信的なものごとがあまりにも深く浸透しているので、新しい反逆者はそのもつれ全体から抜け出すために奮闘しなければならない。
 彼がそういった古いものや腐敗したもの、不合理なことや迷信てきなものごろから自由を勝ち取ることは、より多くの意識を達成するのに絶対に必要なことだ。誤ったものに対して戦えば戦うほど、いっそう彼は正しくなる。そしていっそう正しくなればなるほど、それだけかれは気楽に成り、くつろぐようになる。
 昔の聖人は「ふり」をする者、偽善者だった。新しい反逆者は、真っ正直な人間だ。

中略

新しい反逆者は、だれでもない者であることの、ただの人間であることの宣言だーー彼はシンプルで、誠実で、油断なく醒めていて、目覚めているーー自分自身を知り、他のだれもが自分と同じように神聖であることを知っている。

中略

昔の聖人たちはみな、「優越した存在」のふりをして人間性を非難してきた。彼らは人間の本性を非難し、人間の本能を非難した。彼らの見地では、人間的であることは罪人であることだった。が、新しい反逆者にとっては、人間的であることーー絶対的に人間的であること、自然であること、自分の本能、自分の知性、自分の直観にくつろぐことーーが存在する唯一の精 神 性だ。それよりも高いものは何もない。
 昔の聖人は、人間の尊厳を破壊してしまった。彼らは人間であることの誇りを損ない、架空の神を考えられぬほどの高みまで祀り上げた。彼らは同時にふたつのことをやった。ーー人間をもっとも低い可能性までおとしめ、架空の神をその高みまで祀り上げた。
 神は嘘だったが、それは策略だった。彼らはそれによって、自分たちはむしろ神に近く、人間をはるかに超越した存在なのだ、と主張することができた。彼らは神のひとり子として、神の唯一の使者として、あるいはこの世における神の化身として、神のとのつながりをもつことが出来た。神という仮説はきわめて有用だった。その仮説は、聖人やいわゆる賢者たちが、自分自身と自分のエゴをありうる最高の頂きにまでもち上げるのを助けた。
 新しい反逆者には架空の神などいらない。
 
”真正な人間”で充分だ。

中略

人間はあまりにも苦しみ、あまりにも屈辱を受けてきた。人間は自分たちを世界でいちばん醜い生きものにしてしまった。人言は自分自身をまったくの罪人であるとみなす考え方を受け容れ、その何千年にもわたる絶え間ない主張は、ハートのなかに深い罪悪感の傷あとを生み出したーーそしてその罪悪感は、彼が全面的に生きるのを許さず、強烈に愛するのを許さず、強烈に愛するのを許さず、あらゆる形で彼を防げ、かたわにしてきた。
 昔の聖人は体制の手先だった。彼らは教会、聖職者、王といった権力をもつ者たち、その権力ーーそれは搾取する力であり、人々を奴隷化する力だーーを維持したがっている者たちすべての代理人だった。そして昔の聖人は、その努めを立派に果たしてきた。彼の報酬は、ただの偽りのエゴに過ぎなかった。

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 私の言う反逆者、私の語る新人類(ニューマン)こそゾルバ・ザ・ブッダだ。
 これまで人類は、魂は実在するが物質は存在しないと信じるが、逆に物質は存在するが魂は存在しないと信じるか、そのどちらかをして生きていた。過去の人間は、かならず唯心論者か唯物論者のどちらかに分かれる
 しかし、だれひとり人間の本当の姿をみきわめようとした者はいなかった。人はその両方だ。

中略

しかし過去において、哲学者や賢者や宗教的神秘家のうちだれとして、この統合を宣言した者はいなかった。彼らはみな、一方は真実だが片方は幻影にすぎないと言って、人間を分割する道を選んできた。そのことが、地球上すべてに精神分裂症的な空気を生み出してきた。
 あなたは、ただ肉体として生きることはできない。イエスが「人はパンのみによって生きるのではない」と言うとき、彼はそのことを意味している、しかし、これは真理の半分に過ぎない。あなたはたた意識として生きることもできない。パンなしでいきることもできないのだ。あなたの存在にはふたつの次元があり、その両方の次元が満たされ、その両方に成長のための平等の機会が与えられなければいけない。だが過去において人は、一方を指示して他方に反対するか、あるいは他方を指示して一方に反対するかのどちらかをしてきた。
 全体としての人間は受け容れれてこなかった。
 そのことが惨めさや苦悩を生み出し、途方も無い闇を、何千年も続いてきた、けっして終わることのない暗闇をつくりだしてきた。肉体に耳を傾ければ、あなたは自分自身を非難するはめになるし、肉体に耳を貸さなければ貸さないで、あなたは苦しむーー

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意識が物質世界の豊かさとともに成長するのでないかぎり、肉体ーー物質ーーはあまりにも重くなりすぎ、魂は極端に虚弱になってしまう。

中略

私たちすべての聖人、すべての哲学者にーー唯心論者と唯物主義者両方にーー人間に対してなされたはかり知れない犯罪の責任がある。
 ゾルバ・ザ・ブッダがその答えだ。
 それは物質と魂の統合だ。

 それは物質と意識のあいだには葛藤がないという、私たちはそのりょうほうにおいて豊かになれることができるという宣言だ。

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問題は、どうすればこの反逆が野火のように燃え広がるか、ということではない。問題は、あなたに炎が燃え移ること、あなたが反逆者になることだ。

中略

 非順応主義者であることが反逆者であるというのは、古い連想であり、まちがった理解だ。
 非順応主義者は反動家だ。彼は怒りや激情、暴力やエゴから行動する。彼の行動は意識に気づいていない。彼は社会に反抗しているが、社会に反抗することがかならずしも正しいことだとはかぎらない。実際にはほとんどの場合、そうやって極端からもうひとつの極端に移ることは、ひとつの誤りから別の誤りに移ることにしかならない。

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非順応主義者はただ古いものに反対し、既存のものに反対しているだけで、自分では何ひとつ未来への展望ももたず、自分がなぜそれに反対しているかということについても、創造的な観念をもってはいない。もし成功したら、彼は何をするのだろう?彼は途方に暮れ、完全に当惑してしまうにちがいない。彼は一度もそれを考えたことはなかった。彼が今まで当惑を感じなかったのは、今まで成功しなかったからだ。その失敗は、彼にとってはすばらしい隠れ家だった。

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 非順応主義者は、いつも社会と体制の手中にある。体制側にいくらか知恵と狡猾さがあれば、非順応主義者を利用することは実に簡単であり、なんの困難もない。

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 だが反逆者は体制への反動ではないから、体制にはけっして彼を利用することは出来ない。彼には未来の新人類(ニューマン)の、新しい人間性のヴィジョンがある。彼はその夢を創造し、それを現実に変容するために働いている。彼が社会に対立するとしたら、それは社会が彼の夢の実現にとって防げになっているからだ。

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 反逆も宗教性もーーそれらは、私にとって同義語だーー味わったことがない普通の人は、いざこざが絶えない家庭のようなものだ。内でも外でも絶え間なく戦っている。彼は金のため、権力のため、名声のため、世間体のために戦っている。その外面的な生は武力外交以外の何ものでもない。それは果てしなくつづく戦闘行為であり、彼が息を引き取るときにはじめて終結するものだ。

 内面の状況にたいしてもたいした違いは見られない。なぜなら、外面と内面にそれほど大きな落差があることはありえないからだ。そのどちらもひとりの個人の一部ーーその外面と内面だ。内側では、彼は自分の自然、自分の本性と本能に逆らって悪戦苦闘しているーーいわゆる聖人たちの教えどおりに。彼は盲目的に彼らのことばに従っているだけで、自分自身では何ひとつ理解していない。自分の本能と戦うことで、彼はかたわになってしまう。
 自分の本能ーーに対して戦う人は、まさに彼の魂である直感に対しても戦うことになる。自分の肉体とのあいだに平和を見出せない人が、魂とのあいだに平和をみいだすことは望みえない。というのも、肉体とのあいだに平和を見いだすのは容易なことだが、魂とのあいだに平和を見出すことは、もっと微妙で、目に見えない問題だからだ。

 彼は、「存在」が自分に与えてくれたすべての性向に対して、全力でたたかっているーー愛に逆らい、真理への渇望に逆らってーーなぜなら、伝統主義者たちが彼に教えつづけているからだ。

「真理を探す必要などありません。それはすでに発見されているからです。あなたはただそれを信じればいいのです。あなたの側からの探求は、どれもみな冒涜的なものでしかありません。ただ信仰をもち、イエス・キリストを信じ、マハヴィーラーを信じ、ゴータマ・ブッダを信じなさい・・・・」だが、けっして自分自身を信じてはいけない。


 すべての宗教がそろって同意している点がある。それは、あなたは自分自身を信頼するべきではない、ということだ。あなたは自分自身のことをたえず注意して、見張っていなければならない。彼らはあなたを、自分自身の敵にしてしまった。だからこそ、あなたの内面ではあらゆる瞬間、つねに水面下で微妙な闘争と葛藤がつづいている。あなたは内面的にも外面的にもまったく平和ではない。Pー198

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至福に満ちているのが正しい状態だ。
惨めでいるのは間違った状態だ。
これより他に判断の基準はない。


とりわけ反逆者にとっては・・・この独自性(ユニークネス)の主張こそが、彼のまさに基盤、彼のまさに精 神 性、彼の全存在となる。だがそれは、彼が自分のエゴを主張するという意味ではない。なぜなら、反逆者はあなたの独自性をも同様に尊重するからだ。

 人々は平等でもなければ、不平等でもない。そういった哲学はまったく心理学的な事実、科学的真理に基づいていない。平等というまさにその考え自体が、まったく根拠のないものだ。それぞれにユニークな人間たちが等しいなどど、どうして考えることが出来るだろう。

 もちろん、人々には平等の機会が与えられるべきだーーが、何のために? とても奇妙な目的のためにだ。人々は自分自身になるためにこそ平等の機会を与えられるべきなのだ。別の言い方をすれば、等しくはない、ユニークな存在になるためにこそ平等の機会を与えられるべきなのだ。


国家はその手のなかに可能なかぎり権力を集めてきた。ロシアでは、すべての新聞は政府が発行している。政府の政策を批判するいかなる記事も書くことは出来ない。そんなのはけっして掲載されないだろうからだ。もし書いたりしたら、あなたは鉄格子の中に入れられることになる。それが世に出ることはないばかりか、”あなた”もこの世からいなくなってしまう!


中道の道に従う人は、情熱的に生きることができない。彼は、生の松明を両端から同時に燃やすことができない。それができるようになるためには、人は極限を生きることを学ばなければならない。極限を生きることには強烈さがある。が、それには全体性がない。だから私が強烈さについて語るときは、極端の道の方を強調してきた。だが、こういったことはすべて、一定の文脈のなかで語られて居る。

 私はまた、道はないとも言っている。道という考え方とともに、いつも私たちはすでに完成された高速道路、超高速道路を想像するーーあなたがただその上を歩くだけでいいような。私が、道などないと否定しつづけたのはそのためだ。ー219

中略

そして覚えておきなさい、あなたの道はほかのだれのための道にもならないということを。なぜなら、それぞれの個人はきわめてユニークであり、もしほかの人の道に従ったら、その人は自分自身のアイデンティーを失い、自分自身の「個性」を失ってしまうからだ。だが、アイデンティーや「個性」をもつことこそが、「存在」におけるもっともすばらしい体験なのだ。 


自分自身をなくして、あなたはいったい何を得ようというのか?ただ偽善者になるだけだ。いわゆる宗教的な人々がみな、世界で最悪の偽善者なのはそのためだ。彼らはイエス・キリストやゴータマ・ブッダやマハヴィーラに従っている。
 これらの人々はただの偽善者であるだけでない。こういった人々は臆病者でもある。彼らは自分自身の生を自分自身の手につかんでいない。彼らは自分自身の尊厳に何の敬意も払っていない。ーーーーー彼らはただ上手な役者にはなれるだろうが、けっして自分自身にはなれない。

そして、あなたの演技がいかに美しかろうと、いかに正確だろうと、それはつねに表面的な何か、あなたの上に積りもったほこりの層にとどまる。ちょっとした状況の変化だけでそれは吹き払われ、あなたの現実が姿を現す。
 あなたが自分の独自性を失うということはありえない。
 それはまさにあなたの本性だ。p220


◉和尚ラジニーシの本は書き換えられている。和尚ラジニーシは米国(ユダヤ人達)に殺された!その話はここにあります。


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