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ハンセン病にかかる人たちは過去全世界でどのように言われていたのか?

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今現代はこんな感じ⬇️。しかしハンセン病や同和の人たちを守ろうとする者は、⬆️上の写真ような者達であり何を企んでいるのだろう?( ;´Д`)

歴史的資料

ハンセン病に関する記述は何千年も前にも遡る

古代インドの資料では、紀元前6000年頃からハンセン病に似た病気があったと推測されています。紀元前1550年頃、エジプトのパピルスにハンセン病の記述があったと言われている。

ハンセン病と翻訳された様々な皮膚病が、紀元前600年頃の古代インドのテキスト「アサラヴァ・ヴェーダAtharava Veda」。別のインドのテキスト「マヌ法典」(紀元前200年)では、ハンセン病に感染した人との接触を禁止し、ハンセン病に感染した人との結婚を罰している。

アレキサンダー大王の兵士がインドからこの病気を持ち帰ったとする資料もある。また、ローマの軍隊がエジプトからヨーロッパにこの病気を持ち込んだという説もあります。イスラム教の伝説では、イスラエル人がエジプトでの束縛から解放されたのは、古代ヘブライ人がハンセン病の保菌者だったからだと言われています。

中世社会におけるハンセン病の社会的認識は一般的に恐怖であり、ハンセン病に感染した人々は不浄であり、信頼できず、道徳的に堕落していると考えられていた。主流社会からの隔離は一般的であり、ハンセン病患者はしばしば自分がそうであることを示す服を着たり、自分の存在を知らせる鐘を持ち歩くことを要求された。


1.イスラエルのハンセン病
ボードゥアン4世 (エルサレム王)

ボードゥアン4世Baudouin IV, 1161年 – 1185年3月16日)は、エルサレム国王(在位:1174年 – 1185年)。エルサレム国王アモーリー1世の息子。癩王(the leper king)とも呼ばれた。

癩=らいびょう。悪性の感染症。ハンセン病。
leperハンセン病患者

ある日のこと、若い王子はエルサレムの諸侯の子どもたちと遊び、夢中になってお互いの手をひっかきあったが、ボードゥアンだけが悲鳴を上げなかった。驚いたギヨームが尋ねると、少年は何も感じないと答えた。そこで初めてボードゥアンが皮膚の病(ハンセン病ともいわれる)に冒されていることがわかり、医者に診せても治療ができないことが明らかになった。
(中略)
一方、病がつのり結婚の望みが絶えてしまったので、ボードゥアンは王位継承問題に決着をつけておく必要があった。


世界最古のハンセン病患者は1世紀の男性、
エルサレムで発見のミイラ

イスラエル・エルサレムの旧市街近くで発掘され、ミイラが発見された埋葬用洞くつ(2009年12月16日、ヘブライ大学提供)。(c)AFP/HEBREW UNIVERSITY 魚拓

【12月17日 AFP】イスラエルで発見された1世紀ごろの男性のミイラのDNAから、ハンセン病を患っていた痕跡が見つかったと、エルサレム・ヘブライ大学が16日発表し、オンライン科学誌「PLoS ONE」に掲載された。これまでに確認された中では最古の「ハンセン病患者」だという。


ハンセン病とは:日本財団

ハンセン病患者の人権を訴える日本の第一人者「笹川 陽平」

真ん中:笹川 陽平

笹川 陽平は、A級戦犯、笹川良一(日本船舶振興会初代会長)の三男で、公益財団法人日本財団(旧日本船舶振興会)会長、同笹川平和財団名誉会長、世界保健機関 (WHO) ハンセン病制圧大使、ハンセン病人権啓発大使(日本国)などの役職を歴任。

ハンセン病患者の外見と感染に対する恐れから、患者たちは何世紀にもわたり差別と偏見を受けてきました。古代中国の文書、紀元前6世紀のインドの古典、キリスト教の聖書など、数多くの古い文書に残っている記述からも、ハンセン病は、有史以来、天刑(天罰としての病)、業病(前世の報いによる病)、呪いなどと考えられ、親子、血縁者で引き継がれる病、遺伝病のようなものとして捉えられることもあり、差別は患者本人だけでなく、その一族に及ぶこともあり忌み嫌われてきたことが判ります。

日本でも8世紀につくられた「日本書紀」にハンセン病に関して記録が残されています。歴史上の人物では戦国武将の「大谷吉継」がハンセン病に罹患していたとされ、病気に関わる逸話が伝わっています。


大谷吉継

吉継がハンセン病であったと断定されているわけではないが、1587年に大坂を騒がせた辻斬(千人斬り)事件では大谷吉継を犯人として疑う風説が流れており(この事件は宇喜多次郎九郎らが犯人として捕らえられている)、これに関連して『本願寺日記』(『宇野主水日記』)では、吉継が癩病(ハンセン病のこと)の患者で人体のある部分を(食するために)必要としたのだとする説を載せている。


臀肉事件

ハンセン病の者が殺されたと思われている事件、被害者であるが。

野口 寧斎(1867年4月29日(慶応3年3月25日) - 1905年(明治38年)5月12日)は、明治時代の漢詩人。肥前国諫早出身。

当時、義弟の男三郎は愛妻にも兄:寧斎のハンセン病が遺伝するのでは兄妹の父はハンセン病にて他界していた)と怖れ、「人肉はハンセン病に効く」という当時の噂を真に受け、11歳の少年を殺してその肉を何も知らない妻と寧斎に振舞ったという嫌疑(殺人の嫌疑)で逮捕されていたため、家人は義弟の寧斎殺しも疑った。

第一の殺人事件 臀肉事件
1901年(明治34年)から、野口男三郎は、義兄の野口寧斎宅で寧斎の実妹サエと同居を始めたが、寧斎との関係は必ずしも良好なものではなかった。同居は許されたものの、男三郎は寧斎に信用されていないのではないかと推していた。また、寧斎は、当時「業病」「不治の病」と称されたハンセン病を患っており、男三郎は献身的な看護をしつつもサエに感染するのではないかという疑念を抱いていた。

第一の殺人事件・・っていくつもやらかしていて複合してるんだよ。ややっこしい話で、詳しくはwiki見て。

男三郎はサエとの結婚のため、寧斎との関係を円満なものとすると同時にサエへのハンセン病伝染を防ごうとその治療法を求めるようになった。彼はハンセン病の治療に人肉が有効だという俗信を信じ、近所の児童を殺害し人肉を採取して寧斎に与えようと決意した。

事件の概要

1902年(明治35年)3月27日午後10時過ぎ、東京府麹町区下二番町六丁目五十九番地の路地裏において、近所に住んでいた少年の河合荘亮(当時11歳)が、両眼をえぐり取られ、臀部の肉2斤(約1.2kg)が剥ぎ取られている無惨な姿で殺されているのを付近の住民によって発見された。

被疑者の逮捕

事件発生の3年後となる1905年(明治38年)5月24日、麹町区四丁目八番地に所在する薬店の店主である都築富五郎が何者かに電話で誘い出されたまま帰らず、東京府豊多摩郡代々幡村代々木の山林において、縊死体(首吊り死体)となっているのが発見された。

麹町警察署は、同薬店に度々出入りしていた野口男三郎に注目し、その後の捜査の結果、先の少年の臀肉が切り取られた事件の真犯人ではないかと考え、同年5月29日、野口男三郎を逮捕した。

薬店主殺害事件の少し前の5月12日に男三郎の妻の兄である漢詩人の野口寧斎が急死しており、その殺害も疑われた。

裁判では、当時の敏腕弁護士花井卓蔵によって自白は覆され、少年殺しと寧斎殺しは証拠不十分によって無罪となったが、別の行商殺しの罪では有罪となって死刑となった。
このような経緯から、推定無罪ではあったものの、寧斎の死も男三郎による殺人であったのではないかという説がある。


朝鮮のハンセン病

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