日本を影で支配する賤民・穢多・同和・部落・融和団体・自民党清和会・保守系・暴力団と天皇アイコク=「法の支配」によって世界の秩序を構築
同和・部落・融和運動団体の問題の全体像が一気に見えると思うよ。ワシも知らなかったことばかりで驚いている最中だ。
これ洞村移転問題のWiki読んでて気付いたことが多くあり検索始まって分かったことが膨大になった。分けると解らなくなるので一つにまとめた。本当に膨大だ、23775文字のnote。
【前回の洞村移転問題のまとめ】
1.かつて奈良に洞村という被差別部落があった。
2.被差された部落の人々は、守戸―世襲制の天皇の墓を守る者たちだった。
3.律令制では税金と労役の免除の特権を持つ。
4.天皇・朝廷の律令制度で、民衆を良民と賤民(五色の賤)に分けた。良民と賤民が発生した。
5.五色の賤(ごしきのせん)とは、律令制の元で設置された古代日本の5種の賤民である。7世紀後半に日本に導入された律令制は、中国のそれに倣って、国民を良民と賤民とに大別する良賤制を採用した。良賤の法は大化の改新の645年制定。
6.賤民とは、律令制度で、民衆を良民と賤民に分け、農民である良民には租・庸・調・納税・雑徭の義務を課した。
賤民にはこれらの義務がなく、また良民だからと言って権利があるわけでもない。賤民とは、天皇・朝廷の律令制では、税金と労役の免除の特権を持つ人々だった。
部落問題とは?部落解放同盟の言い分
>被差別部落の原点は、日本の”封建社会”において、政治、社会等の諸要因によって形成されてきた身分制度のもとで、他の身分と分離させられ、衣・職・住等あらゆる生活面で厳しい状態におかれてきた地域であります。
日本での封建社会とは?
概要
日本史においては、一般に鎌倉時代(1185年 – 1333年)から明治維新までの武家支配時代を封建時代と呼ぶ。
この定義だと、「被差別部落の原点は、日本の”封建社会”において、政治、社会等の諸要因によって形成されてきた身分制度」・・・・これは嘘!😅
原点の「良賤の法」は大化の改新の645年に制定。武家支配時代の遥か前の時代。天皇・朝廷は武家に罪をなすりつけたのだろう。
封建制は、もともとは中国古代の周王朝(紀元前1046年頃 - 紀元前256年)の統治制度。武家支配時代を封建時代と呼ぶ。という定義が罠なんだろうね。
ーーー本題ーーー
融和運動とは?
融和運動とは、明治時代から第二次世界大戦中にかけての日本における被差別部落の地位向上、環境改善のための運動である。
明治時代に部落出身の代議士・森秀次、和歌山の郷土史家・岡本弥らによって始められた。大正3年(1914年)6月7日、板垣退助、大江卓らが日本最初の全国規模の融和組織となる「帝国公道会」を設立。
1921年に華族で東京帝国大学助教授だった有馬頼寧が同愛会を設立、1925年にはこれらの団体を結集した全国融和連盟が発足した。
有馬 頼寧は、旧筑後国久留米藩主・有馬家の第15代当主で伯爵。(久留米藩=現在の福岡県久留米市)
農林大臣などを歴任。戦後日本中央競馬会第2代理事長として競馬界の発展に尽力、日本中央競馬会にて行われるGⅠ競走「有馬記念」の名前は有馬頼寧に由来する。中央競馬や農民運動の他、部落解放運動や卓球、プロ野球の発展にも携わった。
1925年には国粋主義者の平沼騏一郎(平沼赳夫の父でのちの内閣総理大臣)を会長とする中央融和事業協会(中融)が発足した。
◉中央融和事業協会
1941年6月、"一億総進軍の急需"にこたえられるよう同和奉公会に改組され、差別解消というよりも被差別部落住民を戦争遂行に動員するための団体となった。戦後1946年3月16日、同和奉公会は解散を決定した。
1930年には政府の内務省社会局が呼び掛けて、明治維新に際して1868年に「五箇条の御誓文」が示された3月14日を「国民融和日」とすることが、全国融和事業協議会で決定された。
「五箇条の御誓文」
五箇条の御誓文は、明治元年3月14日(1868年4月6日)に明治天皇が日本神話の天神地祇に誓約する形式で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針。
一、広く会議を起こし、天下の政治は世論に従って決定すべき
一、上下心を一にして、盛に国家の秩序をととのえ治めを行うべき
一、朝廷と武家、一つに、庶民に至るまで、各々その志をとげ、人心をして失意の意の状態に追いやらぬ事を要する
一、旧来のいやしい習慣を破り、天地の公󠄁道󠄁にもとづくべき
一、知識を世界に求め、大いに天皇が統治する国家の基礎を奮い起こすべき
我が国、いまだかつてなかった変革をしようとし、我が身をもって大ぜいの人に先んじ、天地の神(天照大神)に誓い、大いにこれ、国全体が正しいと認めた政治上の方針を定め、全ての国民が保護して安全である道󠄁を立んとす。大ぜいの人も、またこ意図にもとづき心を合わせ努力せよ。
融和運動2
明治維新の結果、明治天皇によって煥発された解放令により、穢多・非人などの被差別部落民は形の上では封建的な身分関係から解放された。
しかし実際にはさまざまな差別が残っていた。そのため、多くの部落民は文明開化・殖産興業・富国強兵が進行していく中で貧困に苦しんでいく。これを解決するため融和運動が提唱され、大正3年(1914年)6月7日、板垣退助、大江卓らによって日本最初の全国規模の融和団体となる「帝国公道会」が一君万民・四民平等の理念のもと設立された。
板垣 退助は、日本の政治家、軍人(土佐藩陸軍総督)、武士(土佐藩士)。従一位勲一等伯爵。明治維新の元勲、自由民権運動の指導者。東アジアで初となる帝国議会を樹立し「国会を創った男」として知られる。伊藤博文、大隈重信と並ぶ「憲政の三巨人」の一人。また、常に国防を重視し、近代日本陸軍創設功労者の一人でもある。神道の立場から理神論を唱えた。→神と人道(板垣退助の著書)
「日本人は悉(ことごと)く平等に天皇陛下の赤子である」との思想のもと、差別の原因が部落の劣悪な環境や教育水準にあるとし、富裕層の力を借りての部落の経済的向上を目指し、また部落民の意識を高め部落外の人々の同情と理解を求めることで差別を無くそうとするものであった。これらの活動は国粋主義の強いもので、後に博徒系の人々が集まり「大日本国粋会」の設立に繋がる。
◉博徒(ばくと)とは、賭博(とばく)で生計を立てる者を指す。封建社会より現在に至るまで賭博は禁じられてきた。
◉博徒系暴力団
江戸時代から昭和にかけて結成された博徒組織が現代にも暴力団として数多く現存している。
「大日本国粋会」(現・國粹会)
國粹会は、1919年(大正8年)に設立された官製右翼「大日本國粹會」を源流とする組織。日本で最初の右翼団体であり国粋主義の語源ともなった。
尊皇精神の強い、博徒系自由民権家を中心に結成され、初代会長・村野常右衛門(貴族院議員)が私財を投じて建設し、活動の拠点とした文武道場「凌霜館(りょうそうかん)」は、現在町田市立自由民権資料館として活用されている。
大日本国粋会は、東宮侍講・「杉浦重剛」が仁侠精神と尊皇主義を兼ね備えた綱領を起草。「我國古來の温情主義による勞資間の美風良俗(国体・精神・文化)を守るべく左翼運動を實力で粉碎し得る團體」であることが目差された。
博徒や土建業者系の壮士を中心とする全国的規模の右翼団体であり、そのため、超党派的純国家主義思想団体として、皇室中心主義、大アジア主義等や伝統の侠客道を根本信条として行動することを原則とした。
会員数60万と称した。
参考文献、ヤクザばっか!😅
愛國でヤクザといえば・・・・😅
ここから先は
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?