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銭函のアイヌ語地名

銭函(ぜにばこ)という街が北海道の小樽にあります。
「ぜにばこから来ました」と自己紹介すると、思わず「面白い名前ですね」などと言われるものですが、この地名はどこから来たのでしょうか。

一説によると「銭の箱」すなわちお金を入れた箱がたくさん積まれたことからその名がついたと言われています。

また、ゼニバコ以外にもいろいろな呼び方がされていました。
モイハサマヤンゲノツカヤウシノツカヲタシュツセンハコ、実に5種類もの古い呼び名が銭函にはあります。それぞれの意味を調べていきましょう。

モイハサマ

モイ ハサマ(Moi hasama) 湾底
又湾の奥と訳す「ハサマ」又「アサマ」と云ふ。同義和人称して銭函と云ふ。此湾内鯡魚夥しく群衆し其利益甚だ多く尚ほ金庫の如し故に名く

『蝦夷語地名解』永田方正

永田地名解に出てくるこのモイハサマはモイ(湾の)ハサマ(底)という意味ですが、銭函は石狩湾のちょうど一番奥になっています。まさに底にあたる場所ですね。

石狩湾のちょうど底にあるからモイハサマ(湾の・底)

モイハサマは現在は全く使われていない地名で、現地の人もほぼ知らない名前です。

ヤウシノツカ

伊能図に見られるヤウシノツカとヤウシノツカ川

間宮林蔵測量の伊能図に出てくるヤウシノツカは、ヤウシ(網を曳く)ノツカ(岬の上)の意味だと思われます。ヤウシは矢臼別などでも出てくる地名ですね。網はニシン漁に関係するところから来ているのでしょう。

普通の地図で見るとモイハサマで述べたように湾で、「どこが岬なんだ」という感じがしますが、標高がわかる地図を重ねてみるとなぜノツカと呼ばれるのかが見えてきます。

ノツカと呼ばれる理由

銭函駅の西側には台地が広がっており、石狩から海岸沿いにずっと歩いてくると、海岸までせり出したこの"ノツカ"がとても目立ったはずです。
現在の鉄道もこの海岸線の崖の下にありますが、昔の道もこの崖の下にありました。

ノツカの先は海岸ギリギリまで崖が迫っている
銭函駅西部。奥に見える丘がヤウシノツカ

ヤウシノツカの丘のそばにヤウシノツカ川、すなわち銭函川が流れています。

ヤウシノツカは確認した限り伊能図にのみ出てくる地名で、現在は全く使われていません。

ヤンゲノツカ

ヤンケノツカ
川幅七・八間、浅瀬にして急流。上は皆赤揚・柳の木立なり。

『竹四郎廻浦日記』松浦武四郎

ヤウシノツカとよく似た地名ですが、ヤンゲ(陸揚げをする)ノツカ(岬の上)でしょうか。同じくニシン漁に関する名前でしょう。ヤンゲは焼尻島のヤギシリとも由来が似ています。
こちらもヤウシノツカと同じく、丘の地名だけでなく銭函川の名前としても松浦武四郎は書きました。

かつてはこの浜に漁業小屋が立ち並んでいた

東西蝦夷山川地理取調図の下書きである川筋取調図でも、銭函川のことをヤンケノツカと記載しています。蝦夷山川図ではレブンノツカのあたりに流れ落ちていることから礼文塚川と説明しているものも多いですが、これは銭函川だということがわかります。

ヲタシュツ

センハコと並んでよく出てくるのがこのヲタシュツ。ヲタスツ歌棄とも。
ヲタ(砂浜の)シュツ(根本)から来ているのでしょう。寿都の歌棄場所が有名ですが、道内あちこちに出てくる名前でもあります。

現在はここが砂浜の端だが、かつてはもっと奥まで砂が広がっていたのかもしれない

現在の銭函では地図からは消えてしまいましたが、「歌棄町内会」や「うたすつ公園」として地名が現存しています。銭函一丁目の東側の丘の上あたりになりますね。
この歌棄、もともとは海岸地名ですが、銭函川を表す名前としても使われていたようで、旧字名を見ると「字ウタスツ」や「字ウタスツ山ノ上」が銭函川上流に至るまで広い範囲に広がっていました。丁度銭函浄水場があるところまで歌棄だったようです。

朝里村時代の字分布

古老によると、銭函川左岸を「歌棄」、銭函川右岸を「銭函」と読んだとか。ただし伊能図を見ると左岸を「ヤウシノツカ」、右岸を「ヲタシュツ」と読んでいるので、時代によって場所は変わったようです。明治時代の地理院地図だと、かなり礼文塚川寄りに歌棄が書いてあります。

センハコ

センハコ、ゼニハコは銭函の直接の語源です。
かつては前匣、錢箱、銭凾とも書かれました。明治初期までは錢箱が主流でしたが、銭凾村ができた頃からこちらの漢字で定着したようです。銭函という新漢字に変わったのは平成初期くらいだった気がします。

幕末の銭函を描いた錦絵。右上に前匣と書いてある

錢箱[番屋・蔵々] 是(これ)和人名なり。此處(ここら)鯡(ニシン)多くして何時も漁事有てよろしき故、此如(このごとく)號(なづけ)しものか

『竹四郎廻浦日記』松浦武四郎

ゼニハコと申も村名にあらず、古より是所は運上金外の場所にてヲタルナイの銭箱と云ふことにて竟(つい)に村名同様になりたる由

『入北記』玉虫左太夫

いずれも幕末の安政年間に書かれた日誌ですが、銭函はアイヌ語地名ではなく、ニシン漁が盛んであったことから和人がそう名付けたと記録しています。
運上金外の場所、つまりは税金のかからない特別な浜だったので、自由に漁ができたのでしょうか。いわば"ドル箱"の浜だったのでしょう。

ただし、銭函がアイヌ語地名だと言う古老もいます。銭函郷土史によるとシェニ(カシワの木)ポコ(ホッキ貝)とかセニ(狭い所)ハコ(崖)から来たのではないかという考察もされています。しかしこれはあくまでも後代の一説なので真偽のところは定かではありません。
少なくとも幕末の安政年間にはすでに和名として認知されていたようなので、和名説のほうがいまのところ有力のような気がします。

銭函大浜の国有林にはカシワの林が続いている

銭函の地名のこれから

かつては銭函駅で験担ぎの切符を販売したりしたこともあったようですが、近年はあまり銭函の名前を前面に出した活動などはしていないような気がします。
今では廃線になってしまった「幸福駅」や「愛国駅」の代わりに、一度は訪れたい駅としてPRするのも面白そうですね。

現在の銭函駅


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