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数年前に撮ってもらった写真家さんが個展をやっていたので、これまた数年ぶりに会う同業者の友人を誘ってみにいった

『写真っていうものを自分からなるべく切り離して、ただのイメージとしてみてもらうことに挑戦中』と、何年間も写真を生業にしている人が言っていた
何かを作ること自体いつになっても挑戦なんだなと思うと嬉しくてたまらない

自分が被写体として写っている写真に対して私も、なんとか私と切り離すことができないかと考える
というか、写真になった時点で、そこに写る私は私から切り離された物質になっているという感覚
みているひとはきっとそうではないと思うのだけれど

写真にだけ写る本当のことっていうものがあると信じている
でもそれはみかたによっては嘘にも見えるものかもしれない
どれだけ何かを伝えようと尽くしても、全く同じようには伝わらない事実が、もどかしく、愛おしい
自分の心を取り出して、全部みんなにみせられたらどんなにいいかと思うけれど、そんなことはできないから写る

私はなぜ写真に写るのかを問い続ける
写るときはそんなこと全部忘れたまんまなんだけど

友人と写真展を後にして、感じたことや近況などを話しながら、雨の中を何駅ぶんか歩いた

めちゃくちゃ喋った

何駅分か歩いたところでカフェに入って同じカレーを食べた
私は喉の調子がずっと悪いので自家製のジンジャーエールを飲んだ

ほんでめちゃくちゃ喋った

カレーを食べ終わって、また二駅分ほど歩いて、私も行きつけの友人の家の近くのバーに行った

そしてそこでもめちゃくちゃ喋った
人によっては一生分なんじゃないかと思うくらいの分量

喋りすぎて、はー楽しかった!人生おもろ!帰ろう!とか言って本当に帰った

人と会話をする時、基本的には話す側聴く側のバランスの取り合いを意識すると思うんだけど、それを一切排除した状態で自然と会話が進んでいく人間に久しぶりに会った
もしかしたら家族以外にいないかもしれない

『話す』ことと『喋る』ことの違いをものすごく感じた
私たちはずっとおしゃべりをしていた

話をきいてほしいとか、話をききたいとか、根本的にはそういうことじゃなくて、
たぶんただずっとおしゃべりしてたいだけなんだと思う

正解とか、間違いとか、そんなのはたぶんどうでもよくって、こんなことがあってこんなことを感じたんだ!ってことをただ言い合いたい

人と話している時に、たのしいとか、気持ちいいとかって思うときは、自分が話しすぎているって自覚をしなさいみたいなことをよくいろんなところでみたりきいたりするけれど、
そうじゃなくて、本当の意味で対等な、同じくらいの分量で喋る人間っていうのがこの世に存在するっていう奇跡

おしゃべりしていいんだよな、別に誰とでも
気軽におしゃべりしようよ、みんなで

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